ホテルニューグランドにて

めずらしく日の暮れないうちに退勤して目白から渋谷経由で横浜へ。みなとみらい線元町・中華街駅、地上に出るとすでに日は暮れている。山下公園そばのホテルニューグランド旧館、レインボーボールルームにて「金子勝彦さん サッカー殿堂入りを祝う会」に出席。ご招待いただいた際の文面を一部引用するとこうある。

このたび 金子勝彦さんが放送人としてはじめて 栄誉ある日本サッカー殿堂に掲額されました。
一九六八年から八八年まで二十年間にわたって放送された「三菱ダイヤモンドサッカー」は 唯一世界に開かれた窓として欧州、南米をはじめとする世界のサッカーを紹介しました。
金子さんは、実況だけでなく、岡野俊一郎さんの解説を得て、スポーツの背景と文化を視聴者に伝えてきました。金子さんが愛するサッカー、ラグビー、テニス、バドミントン、ベースボールなど、多くの近代スポーツ伝来の地、横浜で「金子勝彦さん サッカー殿堂入りを祝う会」を開くことになりました。

私自身も、十代半ばに東京12チャンネル(現テレビ東京)の「三菱ダイヤモンドサッカー」でイングランドほか世界のサッカーを知った世代で、そこで受けた恩恵はとても大きい。その番組で知ったジョージ・ベストの思い出がずっと消えずに残っていて、40年もたってその小伝を書いてしまったほどだ。その本はお礼の意味を込めて金子さんにお送りした。出版後まもなく、2年前の初夏だったが、編集部を通して「ダイヤモンドサッカー」の担当ディレクターでいらした寺尾さんからご連絡があり、「ダイヤモンドサッカー」放送初回のトッテナムマンチェスター・ユナイテッド戦のビデオなど貴重な資料を送っていただいた。金子さんからも丁重な礼状を頂戴した。手紙でのそうしたやりとりはあったが、お二人にお目にかかるのはこれが初めて。サッカー小僧だった頃の憧れのストライカーにも思いがけず紹介してもらったし(亡きベストとほぼ同年代だがこちらはお元気そうだ)、ベスト伝、書いた甲斐があった。
金子さんは78歳にしていまも現役のアナウンサーで、スカパーのプレミアリーグの実況を担当しておられる。私は金子さんの担当のときだけは現地の実況に切り替えないで視聴するようにしている。
会でいろいろな方々のユニークなスピーチを聞いたが、金子さんのご挨拶の辞がさすが抜群に聞かせる。日本へのサッカー伝来の説のひとつであるイギリス海軍少佐アーチボルド・ルシアス・ダグラスの子孫を訪ねて伝記を書いてみたいとのこと、ぜひやり遂げていただきたい。
帰り際に「プレミアの実況、これからも楽しみにしています」と申し上げると、
「2日後、スウォンジーリバプールです」と力強くおっしゃった。

横浜生まれ、横浜育ちなのだが、ホテルニューグランドには外から眺めるだけでこれまで一度も足を踏み入れたことがなかった。会場のレインボーボールルームはロココ調の内装で、昭和二年開業、名前の通り舞踏会が夜ごと開かれていたそうな。
 

茶話会とおとむらい

2月25日(土)午後2時よりラスキン文庫ティーパーティ。銀座ミキモト本店の上階にあるホールにて。例年2月下旬に行われ、最初に30分のショートレクチャーがあり、そのあと茶話会。先日ラスキン『ゴシックの本質』の訳本を出した関係で、それにまつわる話を秋山理事長より依頼されて、抜粋のレジュメ(訳文と原文)を作ってそれにそってお話しする。前日まで学務過多で原稿を作る時間もなく、大体のアウトラインを考えていったが、私自身のラスキンとの出会い(1981年、小野二郎の演習での「ゴシックの本質」精読)と、モリスのラスキンとの出会い、ラスキンの文体の特徴(の一端)を話したところであっというまに時間切れ。予定では、後半に「ポストフォーディズム下のラスキン・モリス」という当面の(RW研メンバーより与えられた)重点課題について問題点を投げかけてみるつもりだったが、その余裕はなかった。パーティの席で協会員の横山さんにその入れなかった話題についてかいつまんで説明すると、この会ではむしろそこまで行かなくてよかったとのコメントをいただいた。
 会の終了後、目白でひとつ用事を済ませた後、聖蹟桜ヶ丘へ。観蔵院瑠璃光会館にて、内藤健二先生のお通夜。内藤先生はシェイクスピアがご専門、かねて病気療養中でいらしたが、2月20日亡くなった。享年80.私は明大の大学院で、1980年代前半にお世話になった。1983年だったか、私の要望で院の演習でエドマンド・スペンサーの『フェアリー・クイーン』をテクストにして付き合ってくださったのはありがたかった。語学力にたいへんすぐれ、学識のある方だった。書かれたものの量より、書かれずに考え抜かれたことがらのほうがおそらく圧倒的に多かった。お清めの席で教え子の方々と久しぶりに会い、もろもろの回顧談となる。
2月26日(日)ふたたび聖蹟桜ヶ丘へ。午前11時より内藤先生の告別式。先生をお見送りし、そのあと旧知の方々と近況を伝えあい、やはりもろもろの回顧談となる。
 

小野二郎『ウィリアム・モリス通信』

こんな本を編んだ。

ウィリアム・モリス通信 (大人の本棚)

ウィリアム・モリス通信 (大人の本棚)

ウィリアム・モリス――ラディカル・デザインの思想』(中公新書、1973年)の中公文庫版が昨年改版されて、それもすぐれたモリス評伝なのだが、1973〜74年の在外研究をへて書かれた一連のモリス論(とその周辺の装飾芸術論)のほうが質が高い。しかしそちらのエッセイ群はアクセスが限られている。それを精選したエッセイ集をかねがね出したいと願っていて、ようやく実現したのが著者の没後30年の年ということになった。
版元のHPをのぞいたところ、トピックスのページに編集担当者による紹介文がアップされている。これ、とてもいい文章。

自由とは

12月6日(水)12:30〜午後1時、メディアセンター運営委員会。1時15分〜3時10分、学部長会、3時15分〜4時45分、常任理事会。5時〜6時、進研アドによる入試動向分析を聞く会。土曜の学会発表の準備をする時間がろくに取れない。

12月7日(木)2時限目イギリス文化演習。アイヴォリー監督『眺めのよい部屋』の前半部分を観つつ、原作者フォースターについて、エドワード朝の特徴、ツーリズム、英国人にとってのイタリアなど、今回はほぼ講義に近いメニューとなった。午後3時〜4時、研究科委員長会、4時〜6時、大学評議会、6時10分〜7時、自己点検教学委員会。学会発表準備の時間が今日もろくに取れない、どうする。
 群馬大の早川教授訓告処分をめぐっての騒動、研究室での記者会見(を管理職が阻止しようとする)動画がアップされているのを見ながら、「もし自由というものがなにがしかを意味するのであれば、それは人が聞きたがらないことを言う権利を意味する」というオーウェルの寸言を想起する。

YBAの時代

12月5日(月)午前中歯医者。午後から学務。

12月6日(火)2時限目イギリス文化講義。「ヤング・ブリティッシュ・アーティストの時代」。パワポ資料、いつも以上に多く、デミアン・ハースト、クリス・オフィリ、マーカス・ハーヴィー、サラ・ルーカス、ロン・ミュエック、トレイシー・エミンらの「センセーショナル」な作品の画像など、50枚以上見せながら話す。私が遅ればせながら初めてYBA作品をまとめて見たのはたしか2004年で、ロンドン、サウスバンクの旧カウンシルホールにサーチ・ギャラリーが入っていた時だった。会場を見て回って、ハーストの《生者の心における死の物理的不可能性》(サメの全身のホルマリン漬け、1990年)、《讃美歌》(巨大な人体模型、1996年)、ジェイク&デイノス・チャップマンの《昇華されないリビドーモデルとしての接合子の増殖》(1995年)などを見て、自分の脳のふだん使っていない部分をさっと撫ぜられてぞわぞわっとするような、不思議な感覚を覚えたのだった。スライドで絵解きをしつつその感覚をある程度共有してもらうことにつとめてから、チャールズ・サーチの本業である広告ビジネス(サーチ&サーチ社は1979年に保守党のためにLabour Isn't Workingという卓抜なキャッチコピーを出してサッチャーの政権獲得に寄与した)とモダンアートの親和性(サッチャリズムとの共犯関係)を指摘し、その上で、YBAの「おぞましさ」のなかに、新自由主義との「結託」といった次元を超える、別種の「自由」の可能性が潜んでいないか考えてもらう。最後に教科書で触れられなかった「メメント・モリ」のモチーフのYBA的変奏について付言。


これは彫刻家ミュエックの代表作『デッド・ダッド(死んだお父さん)』(1997年)。彫刻といっても伝統的な技法でなく、主要な素材はシリコン。ミュエック自身の父親の亡骸を毛の1本1本までリアルに再現している。超リアルな像でありながら唯一サイズだけが縮小されて異化効果を持つ。この画像では左にいる鑑賞者は大人だが、私が7年前に見た際、5,6歳の小さな子どもたちがかがみこみながらこの像に真剣に見入っていた光景を覚えている。
3時〜4時半、理事会、5時〜7時、学園綜合計画委員会。

イギリス文化史教科書「まとめの会」など

12月2日(金)2時限目大学院のイギリス文化講義。モリス商会設立の前段階。20歳代前半、ストリートの建築事務所への就職、バーン=ジョーンズとの共同生活、ロセッティに促されての画家修業、結婚、そして装飾デザイナーの道へというおそらく挫折も伴う自己形成の道。昼休み中院生との面談。3時限目、卒論ゼミ。ゼミ内での第一次締め切り。12人分の英語論文草稿を受け取る。10日後に個人面談をして返却することを約束したものの、約7500語×12をこの期間に全部目を通して戻すのはかなり過酷。事務打ち合わせ数件。夕刻、入学課職員との忘年会(忘年会の第一弾)。池袋東口近くの「ラピュタ〜空の頂〜」という店にて。どう見てもジブリとは無関係。

12月3日(土)午後2時より5時まで、慶應義塾大学三田校舎にて、イギリス文化史教科書研究会「まとめの会」。『愛と戦いのイギリス文化史1951-2010年』を9月に刊行し、2か月半がたった。刊行前に編者の会議は何度もしたが、全体会としては昨年の9月以来となった。前半で今年度後期からさっそく教科書として使っている私と大貫隆史さんの実践報告、後半で三浦玲一さんからコメントをいただき、それをもとに討議。三浦さんは本書を丁寧に読まれたうえで、とても鮮鋭なコメントをくださった。たとえば終章で私はブリットポップによる60年代イギリスロックからの「既視感を覚えさせる」借用にふれたが、ニュー・レイバーのブレアが推進したロールアウト型新自由主義における労働(者階級)の隠蔽という指向をブリットポップ(およびクールブリタニアクリエイティヴ産業の産物)がメタフォリックに表象しているという示唆は、拙文の言い足りぬ部分を補っていただいたように思う。
 教科書作りの準備段階でニューレフト運動の評価が研究会で重要度の高いトピックとみなされていたのに出来上がった教科書でそれはどこに行った? という質問、というか掘り下げが足りない(決着をつけるべきだった)というご指摘はそのとおりかもしれない。ラスキンに学んで1880年代に「芸術とは労働における喜びの表現である」と言ったモリスの芸術=労働観は、労働者がテイラーシステムのもとで「機械」のように働くのでなく柔軟で「人間」的な対応を求められるポストフォーディズムの労働倫理として、体よく横領されてしまったのだろうか。第二次大戦後、E・P・トムスンやR・ウィリアムズが福祉国家体制のなかで社会主義運動の新たな理論構築をめざし、イギリスの労働者階級に内在する(と信じた)革命的伝統の再発見を呼びかけ、その運動原理の模索のために先駆者の一人としてモリスを呼び出したことは、結局イギリスという「縮みゆく島」の先行きへの不安の反映、帝国の過去への憧憬として片付けられてしまい、その系譜に積極的な可能性はもはや見出せないのだろうか。――いや、そうではないと言いたいが、その掘り下げはたしかに十分にできていない。今後の重要課題だということを再確認させてもらった。モリス論、まとめなければいけない。
 夕刻、三田の中国飯店にて出版記念の会。慶應仲通りの「まんまや」で二次会。さらに後に残った元気者もいたようだが、出版会から頂戴したお花をなくさないように気を付けて、日付の変わる前に帰宅。

12月4日(日)終日自宅。10日のシンポジウムの準備など。お昼時にテレビをつけると福岡マラソンのテレビ中継、20キロ付近から見はじめて、「公務員ランナー」川内選手の走りっぷりと(たいそう苦しげでありながらどこか目に快楽が浮かんでいるようでもある)表情に目が離せなくなり、最後まで見入ってしまう。本日がさらなるブレイクの転機と見た。マスコミの手にかかってつぶされませんように。