Prof. Keith Hanley特別講演

日本女子大学文学部・文学研究科学術交流企画/一般財団法人ラスキン文庫(共催)

John Ruskin and Cultural Tourism
A Special Lecture by Prof. Keith Hanley (Lancaster University)  chaired by Prof. Yasuo Kawabata (Japan Women’s University)

 日時:2016 年7月2日(土)14:00〜16:30

 会場:日本女子大学目白キャンパス 新泉山館2階会議室
    〒112-8681 東京都文京区 目白台2-8-1
    TEL:03-5981-3554(川端康雄研究室)

 使用言語:英語のみ(同時通訳はありません)
 *入場無料
 *日本女子大学へのアクセス http://www.jwu.ac.jp/grp/access.html
  キャンパスマップ http://www.jwu.ac.jp/unv/about/campusmap.html
 *問合先:川端康雄 ykawabata@fc.jwu.ac.jp

本講演では、イギリス19世紀の批評家ジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819-1900)が生涯に行った旅行(国内旅行および大陸旅行)に注目し、その作品(著作に加えて素描、スケッチなども含めた作品)を「文化観光」の視点から再検討します。ランカスター大学のキース・ハンリー教授はこの分野での代表的な研究者であり、John Ruskin's Romantic Tours 1837-38 (2008), Journeys of a Lifetime: Ruskin's Continental Tours (共著、2008)をはじめ、このテーマに関わる重要な著作をいくつか出しておられます。どうぞふるってご参加下さい。

「奴らを通すな!」 1936年10月4日の「ノーパサラン!」

 79年前の1936年10月4日も日曜日だった。その日、ファシズムに対抗する重要な出来事がイギリスであった。場所はロンドンのイースト・エンド、労働者階級の居住地区で、移民労働者、特にユダヤ人が多く住む。そこにオズワルド・モーズリー率いる英国ファシスト連合(BUF)が反ユダヤ人デモを企画、2千〜3千人規模でホワイトチャペルから行進を始めたところ、それを阻止しようとしておよそ10万人の人びと(ユダヤ人やアイルランド人を含む地域住民、社会主義者コミュニストアナキストら、30万人という説もある)が街頭に出て、バリケードを築き、「ノーパサラン!」をスローガンにBUFと警官隊に対抗した。

 上の写真(Tower Hamlets Archive picture)は当日のガーディナーズ・コーナー。BUFの隊列がホワイトチャペル大通りに侵入しようとするのを群衆が阻んでいる。この時警官隊が治安維持のために6千人規模で出動していたが、地域住民を守るためというよりは、「合法的」なBUFのデモのためにバリケードを解除してファシストを通してやるためだった。通りに住む家々から女たちはゴミ芥や腐った野菜や糞尿を警官隊に投げつけて抗議した。モーズリーとBUFの隊列はデモを強行しようとしたが、ケーブル・ストリートで最も激しい抵抗にあって結局撤退した。



 ケーブル・ストリートの一角には、反ファシズム行動のこの歴史的勝利を記念した壁画が制作され、いまも見ることができる。ロンドン、タワー・ハムレット区、シャドウェル駅を降りて西に少し歩くと、タウンホールの西側の壁面にこれが描かれているのが目に入る。この歴史画をここに描くことが区議会で認められ、完成したのは1982年のことだった。極右団体のいやがらせで壁画が傷つけられることが再三あったが、住民の寄付と区の予算によって修復と保護の費用がまかなわれている。この「コミュニティ・アート」の重要な作例について横山千晶はこう述べている。

 《ケーブル・ストリートの戦い》は、描かれている壁面が平面とは思えないほど立体感と動きと喧騒に満ちた作品である。現在この壁画は芸術作品として評価されるだけでなく、間違いなく町のひとつの顔であり、町の歴史の語り部でもある。だからこそこれを守ることは町の義務となる。2007年7月、地元住民からの壁画保全の要望を受け、審議を重ねた結果、同議会は2008年1月に「ケーブル・ストリートの壁画(パブリック・アート)の維持と保全のため、8万ポンドを計上する」ことを決定した。(横山千晶「芸術とコミュニティ」『愛と戦いのイギリス文化史1951-2010年』慶應義塾大学出版会、2011年、87頁)

 「ノーパサラン!」(¡No Pasarán!)というスペイン語のスローガンは、同年の1936年7月にスペインの反ファシストの指導者で伝説的な女性闘士「ラ・パッショナリア」(「情熱の花」=「トケイソウ」)ことドローレス・イバルリ・ゴメスがバルセロナファシストの反乱軍との戦いにむけて連帯を呼びかける演説に出てくる。その語句がふくまれるくだりは以下のとおり。

私たちはとりわけあなた方に、労働者、農民、知識人に呼びかける。共和国の敵、人民の自由の敵をついに打ち破るための戦いにむけ、自分の持ち場に着こうではないか。人民戦線よ、永遠なれ! 反ファシストの連帯よ、永遠なれ! 人民の共和国よ、永遠なれ! ファシストどもは通さぬ! ノーパサラン!(奴らを通すな!) (1936年7月19日)

 この「ノーパサラン!」がスペイン内戦中の共和国側のスローガンとなった。そして早くもこれが発せられた3カ月後にイギリスでのアンティファ運動で引用されたわけだ。「ケーブル・ストリートの戦い」はスペインの反ファシズム運動に連なるアクションとして自覚的に戦われたことがこのスローガンに示されている。
 数日前、毎日新聞の神奈川版に「記者のきもち:ノーパサラン」という記事が掲載されていた。今年9月16日に新横浜でおこなわれた安保法案に関する参院特別委員会の地方公聴会の会場で、法案に反対するデモの参加者の一部がこのスローガンを叫んでいるのを聞いて、記者は違和感を覚えたらしい。

 「憲法9条を守れ」とのボードを掲げた初老の男性が、困惑の表情を浮かべていた。「何という意味ですか」。尋ねられた私も分からない。インターネットで検索し、「やつらを通すな」という意味のスペイン語らしいと知った。/デモを否定するつもりはないが、意味が通じる仲間による仲間に向けた大合唱に、近寄りがたさを感じた。「法案反対」に共感するデモの参加者にさえ理解できない言葉が、遠巻きに眺める人々の心に届くのかと疑問を抱いた。/2時間後。異様な熱気は消え、数人がビラを配るだけになった。受け取る人はわずかだったが、法案に反対する理由がしっかりと書かれていた。「ノーパサラン」の連呼が、法案について考えてみようとする人の機会を奪う「通せんぼ」にならなかったか。地道な活動を続ける人たちを前に思った。【水戸健一】(毎日新聞 2015年10月01日 地方版、Web版より)

 「ノーパサラン!」の標語をそれまで知らなかったと書くのは素直ではあるが、新聞記者としてはリテラシーが低すぎると言わざるをえない。またこの語を知らずに「困惑」する参加者の一人を選択して記者自身の違和感を投影させ、それを一般化して、「地道な活動を続ける人たち」とこの標語を使う人たちを分断し、後者を内輪の大合唱として否定する論法は乱暴で、大いに問題があると思う。
 日本でも「ノーパサラン!」は近年アンティファ(ファシズムへのカウンター)運動などで標語として使われてきたが、何よりも今年になってSEALDsの多様なコールのレパートリーのひとつとして、国会前で、また各地でこれを多くの人びとが聞き、また唱えることで広く普及したといえる。私が居合わせて見たかぎりでいうと、初夏から真夏へと国会前の抗議集会やデモの参加者が回を追うごとに増えていった際に、「ノーパサラン!」のコールは、“Tell me what democracy looks like!”などと同様に、コーラーがメガホンで唱えたときに特に年配の方々で意味がわからず唱和できない人が確かに見受けられた。「ねえ、なんて言ってる?」「わかんないねー、なんだろー」
 しかしこれが「地道」な参加者を疎外する「通せんぼ」になったという印象は私にはまったくない。夏の終わり頃までに、9月の参院の閉会までの数日間ともなると、概ね普及して、初老の男性だろうと、女性だろうと、いや初老でなくてもっと高齢の方でも、かなり返せるようになっていた。画期的な三連符の「安倍は辞めろ!」コールも老若男女問わず多くが身につけてしまっていて、すごいと思った。“This is what democracy looks like!”を若者がノリのよいリズムで唱えるのに中高年が付いて行くのは最後まで厳しそうではあったけれども。それでも明らかに大半の人がそのコールを楽しみかつ共感していた。
 内輪のスローガンなどではなく、1930年代のヨーロッパの反ファシズムの人民戦線、また近年のオキュパイ運動で用いられたスローガンなどを引用することで、戦争法案反対の示威行動でありながら、過去の世界各地での民主化運動にいまの運動が連なっているという認識を集団的に共有することができる。そうしてみると「ノー・パサラン!」はいわば叙事詩の一節のような働きを持っている。なにしろこの語句に歴史上の反ファシズム運動、民主化運動の重層的な記憶が埋め込まれているのだから。これを知的で情熱的な、また徳の高い近頃の若者たちが、言葉を身体化し、朗唱しているのを見ると、こんなどうしようもないありさまではあるが、この国にはまだ希望があると思えてくる。まったく近頃の若者ときたら、大したもんじゃないか。
 そういうわけで、79年前の1936年10月4日も日曜日だった。その日ロンドンはよく晴れていたそうだ。

ディストピアの言葉づかい

 日本国の現政権の問題を指摘するのにジョージ・オーウェルの名前がしばしば出てくるのは当然のことであろう。じっさい、現政権が憲法違反の安保法制を押し通そうとしている光景は、オーウェルの『動物農場』の世界を彷彿とさせる。考えてみるとこの物語の筋立てというのは、「動物共和国」成立に際して制定した憲法が、特権化した一部の動物の仕組んだテロと欺瞞的な言語使用によってなし崩しにされて(つまり民主的な手続きを経ずに憲法が破壊されることで)独裁国家に変わり果てるというものだ。原作の発表は1945年の8月なので、まさに70年前ということになるが、この70年で日本がこれほど「オーウェル的」状況に突き進んだことはなかったのではないか。そう思うと改めて愕然とする。
 しかしいま、「アベ政治を許さない」という大きな運動のうねりがある。この「アベ政治」の一要素として、白を黒と言いくるめて他者をたぶらかすことを狙った不誠実な言葉づかいがあるように思う。政治を腐敗させる無責任で虚偽に満ちた言辞への憤りをいま多くの人びとが表明している。そのことに希望がもてる。
 以下、以前に書いた拙文のなかから、『動物農場』での政治と言語の問題について述べたくだり(岩波文庫版『動物農場』解説「ディストピアおとぎばなし」より)を一部アレンジして掲載する。ご参考まで。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *
 『動物農場』とそのあとに書かれた『一九八四年』とを比べると、前者が動物寓話の「おとぎばなし」、後者が自然主義小説と、たがいに異なる形式だが、スターリン体制をひとつの典型とする全体主義的な心性を表わそうという共通の目的をもち、さらに政治権力と言語問題との相関関係に重大な関心をはらっている点でも共通する。
 オーウェルはエッセイストとしても良質の仕事を残した(エッセイのほうが重要だとする評価もある)。そのひとつ「政治と英語」(1946年)のなかで、かれは「婉曲法と論点回避と、もうろうたる曖昧性」からなる現代政治の言葉を批判し、政治の堕落と言語の堕落が強く結びついていると述べた。政治の革新に必要な第一歩は、直裁簡明な言語によって明確に考えることだ。言語から改善すれば、政治をいくぶんかでも良くできるだろう。しかしその反対に、言語を周到に、修復不可能と見えるまでに悪化させてしまった社会はどのようなものか。オーウェルは二つの物語でそれを想像し、提示したのである。
 『動物農場』では政治の悪化を示す言語使用の状況は二つの面で語られる。ひとつは動物たちの憲法にあたる「七戒」の改竄(かいざん)。これは条文の最後に但し書きを加えることでなされる。「動物はベッドで寝るべからず」とあったのが、豚が人間のベッドを使うようになると「シーツを用いて」という句が加わる(第6章)。

(第4条)No animal shall sleep in a bed.(動物はベッドで寝るべからず」
(改竄版)No animal shall sleep in a bed with sheets.(動物はシーツを用いてベッドで寝るべからず)


 「酒を飲むべからず」は、豚が飲酒にふけると「過度に」が加わる(第8章)。
(第5条)No animal shall drink alcohol.(動物は酒を飲むべからず)
(改竄版)No animal shall drink alcohol too much.(動物は過度に酒を飲むべからず)


 危険分子の粛清がはじまると、「ほかの動物を殺すべからず」には「理由なしには」という句がつく(第8章)。
(第6条)No animal shall kill any other animal.(動物はほかの動物を殺すべからず)
(改竄版)No animal shall kill any other animal without cause.(動物は理由なしにはほかの動物を殺すべからず)


 これらの追加の但し書きは原文では“with sheets,” “to excess,” “without cause”と、いずれも二つの英単語からなり、これをセンテンスの末尾に加えるだけで、まるで「おとぎばなし」の魔法のように、禁止事項が限定的な許可を示す条文に反転してしまう。きわめつきは最後の第七条「すべての動物は平等である」で、そのあとに「しかしある動物はほかの動物よりももっと平等である」が加わり、「平等」という語が無意味に(あるいは、それが何らかの意味をもつとすれば、ねじまげられた意味に)されてしまう。
(正規の条文)All animals are equal.(すべての動物は平等である)
(改竄版)All animals are equal, but some animals are more equal than others.(すべての動物は平等である。しかしある動物はほかの動物よりももっと平等である)


 『動物農場』での言語の堕落は、さらに宣伝係の豚スクィーラーの詭弁によっても示される。その特徴は「政治と英語」でオーウェルが「大げさな言葉づかい」と名づけているもの(これも一種の「婉曲法」に入る)、つまり「単純な言明を過度に飾りたて、偏った判断を科学的に中正であるかのように感じさせるために使われる」言葉づかいである。使用語彙もギリシア語やラテン語起源の音節の多い抽象語の頻度が高い(これはスノーボールの発言部分でも目立つ特徴である。日本の詭弁政治家・官僚の場合は怪しい漢字熟語やカタカナ語の頻用ということになろう)。分かりやすい単語を基本とする地の文が背景にあるので、「長たらしい」単語が突出し、そのコントラストのために、新たな権力者となった豚たちのグロテスクな言語使用の実態がはっきりと浮かびあがって見える。たしかに動物農場においても、政治の堕落と言語の堕落は不可分に結びついている。
 そういうわけで、エッセイ「政治と英語」で示した提言の陰画が『動物農場』に描かれていると見ることができるだろう。このテーマをオーウェルは『一九八四年』でひきつづき追究することになる。そのディストピア世界では、使用語彙の削減や統語法の組織的な操作によって、一般市民が反体制思想をいだけぬようにする「ニュースピーク」の原理が、独裁体制を保持するために必須の装置となるだろう。




安全保障関連法案に反対する学者の会 2015年7月20日、東京、学士会館(最後列からの眺め)

ウィリアム・モリスと現代

以下、イベントのご案内です。お時間とご関心のあるむきはぜひどうぞ。


日本デザイン協会(JDA)、日本建築家協会(JIA)デザイン部会共催

トークイベント「ウィリアム・モリスと現代」
川端康雄 × 大倉冨美雄

産業革命に始まる近代化の波にさらされ、生活の中で失われつつあった手仕事の美に着目し、アーツ・アンド・クラフツ運動を主導したウィリアム・モリス
この公開トークイベントでは、モリスを軸に、19世紀中葉の英国における産業革命後とそれに対抗する耽美主義活動との相克をみていきながら、近代デザインの原点ともいえるこの問題を通して、現代日本の産業構造と文化認知のあり方を探り、論じます。  チラシ

日時:2014年9月19日(金曜日)18:30〜21:00(20:30〜21:00は懇親会)
会場:JIA館1F 建築家クラブ(東京都渋谷区神宮前2-3-18) 地図
参加費:一般1000円、学生500円(懇親会費を含みます)

参加申込:事前申込制 (定員60名。申込多数の場合は先着順) お申込ページ

継続職能研修(CPD)プログラム:登録申請中

主催(共催):日本デザイン協会(JDA)(事務局長:秋山修治)/日本建築家協会(JIA)関東甲信越支部デザイン部会(代表:山本想太郎)

協賛:NPO建築家教育推進機構

天国への階段

懲りもせずというか、身の程をわきまえず「過剰受注」のツケがまわって、締め切りをとうに過ぎている原稿をようやく8割方進める。結論が見えていて、書くことで自分に新しい発見が得られそうにないような類の書き物はいささか書くのがつらい。
気晴らしに庭に出ると、小さな花が目にとまる。



昨年庭造りを頼んだ「木ごころ」のご主人の選択で、植物に疎い依頼人にわかるよう名札をつけてもらってあったので、それを見ると「ポレモニアム・ステアウェイトゥ…」とカタカナで書いてある。それで調べてみるとPolemonium Stairway to Heavenということらしい。「ポレモニウム・天国の階段」というわけだ。「ポレモニウム」はラテン語の学名で「ハナシノブ属」とある。頼りにしているコリンズ社のハンディな植物図鑑『ブリテン北ヨーロッパの野花』を引くと、Phlox Family (Polemoniaceae)の項目にJacob's Ladder (Polemonium caeruleum)とあって、図を見た限りで似ているが、ウェッブ上で検索すると北米ほか広く分布するPolemonium reptans(「這うポレモニウム」)というのもあって、これStairway to Heavenという名がついている。厳密にはこちらのほうなのだろうか。
ヤコブの階梯(天空のポレモニウム)」というのは、むろん、旧約聖書創世記中のエピソード、ヤコブの夢に出てくる階段にちなんでいる。それにしても、この花の形状からこの名前とは、どのような連想によるのだろうか、などと考えつつ、部屋にもどると、久しぶりにレッド・ツェッペリンのStairway to Heavenを聞くというなりゆきになる。

YouTube

高校生の頃は(いや大学生以後だって)歌詞にあまり意識が向かわなかったのだが、改めて聞いてみると謎めいて不思議な詩なのだな。だいたい「レイディ」って誰なのだろう。
ヤコブの階梯」というとブレイクやバーン=ジョーンズがそのモチーフを描いていたのを思い出す。Stairway to Heavenの歌詞はロバート・プラントが手がけたそうだけど、ジミー・ペイジは再評価の機運が高まる前からバーン=ジョーンズが好きでモリス商会オリジナルの〈聖杯の探求〉タペストリーを購入していたことが知られている。ラファエル前派のイメージ群とツェッペリンの音楽、やはりつながりがありそうだな……と想念がどんどん拡散していくが、さあこんなことしていないで仕事にもどろう。



 (バーン=ジョーンズ《ヤコブの夢》(1897年)ステンドグラス、セント・マーガレット教会
   ロッティングディーン、2012年3月撮影)

魂と関係

いつになく「魂」という語を思ったら、20歳代で出会ったふたつのパッセージがよみがえった。
ひとつは木島始の詩「とむらいのあとは」より――

 たおれたひとの
 たましいが
 うたえなかったもの
 ゆめみよう


 銃よりひとを
 しびれさす
 ひきがね ひけなくなる
 歌のこと


もうひとつは散文で、花田清輝の『復興期の精神』(1946年)所収の「群論――ガロア」の結句。(「よみがえった」といっても丸暗記しているわけではなく、手元の文庫本から写す。)

ガロア群論を、新しい社会秩序の建設のために取りあげることは、おそらく乱暴であり、狂気に類することかもしれない。しかし、人情にまみれ、繁文縟礼にしばられ、まさに再組織の必要なときにあたって、なおも古い組織にしがみついている無数のひとびとをみるとき、はたして新しい組織の理論を思わないものがあるであろうか。さらに又、再組織された後の壮大な形を描いてみせ、その不能性を証明されると、たちまち沈黙してしまうユトピストのむれをみるとき、問題の提起の仕方を逆にして、まず組織の条件の探求を考えないものがあるであろうか。かれらの人間性を無視して、かれらにむかって突撃したい衝動を感じないものがあるであろうか。緑色の毒蛇の皮のついている小さなナイフを魔女から貰わなくてもすでに魂は関係それ自身になり、肉体は物それ自身になり、心臓は犬にくれてやった私ではないか。(否、もはや「私」という「人間」もいないのである。)


後者の「群論」は、初出は1942年とある。大東塾の連中に暴行を受けたのはこれより後のことだったか。
なんのつながりがある? 説明しようがないが、「魂」という鍵語で、ふたつを思い出しただけのことだ。

年末に西方へ

クリスマスシーズンに九州へ、4日間、天草、肥後の国をまわる。空路で羽田から熊本空港へ、車を借りて天草の上島に入って南下、キリシタン弾圧に関わる史跡を訪ね、牛深港からフェリーで鹿児島県の蔵乃元港へ、海岸線沿いに北上して水俣へ、その後熊本経由で湯布院へ、大分空港から帰途に。



 水俣市水俣病資料館からの眺め

 旅から戻って石牟礼道子苦海浄土』を再読。
 第1章の終わり近く、昭和40年2月7日、水俣病40人目の死者荒木辰夫さんの葬列の情景を描いたくだり、著者は古代中国の呂太后(りょたいごう)による戚夫人への所業を想起する。「手足を斬りおとし、眼球をくりぬき、耳をそぎとり、オシになる薬を飲ませ、人間豚と名付けて便壺にとじこめ、ついに息の根をとめられた、という戚夫人の姿を。」それに続く段落ひとつ、引用させてもらう。

 水俣病の死者たちの大部分が、紀元前二世紀末の漢の、まるで戚夫人が受けたと同じ経緯をたどって、いわれなき非業の死を遂げ、生きのこっているではないか。呂太后をもひとつの人格として人間の歴史が記録しているならば、僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられた、そしてなお加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえられねばならないか。独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうか知れぬが、私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の言語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。

 石牟礼さんは今年の夏にNHKの『クローズアップ現代』に出ておられた(「水俣病“真の救済”はあるのか―石牟礼道子が語る」2012年7月25日放映)。いま現在、以下にアップされている。
http://www.dailymotion.com/video/xsg82v_2012y7y-yyyyyyyyyy_news
まだの方、必見です、これはぜひご覧ください。