Politics and Letters覚書

 Raymond Williamsが編集に関わった雑誌Politics and Lettersの揃いが古書カタログに比較的安価で出ていたので注文したところ、本日届く。Clifford Collins, Wolf Mankowitzとの共同編集。揃いといっても、1947年から1948年まで4号という短命の雑誌。2&3号は合併号なので、実質上(それに先行する雑誌The Criticは別のものとして)3冊。文字どおり「3号雑誌」だ。ウィリアムズ26〜27歳の時期に当たる。

 最後の第4号にはオーウェルが「作家とリヴァイアサン」を寄稿している(彼の死の約2年前にあたる)。ウィリアムズはジョイスExilesについての論考を寄稿。二人の名前が同一号の目次に連なっているのを見ると、ある種の感慨を覚える。
 オーウェルは友人のJulian Symonsに宛てた1948年3月21付の手紙でこう書いている。

『ポリティクス・アンド・レターズ』編集部が雑誌をぼくに送ってくれたので、ぼくは「批評家とリヴァイアサン」シリーズに一篇〔「作家とリヴァイアサン」を〕書いた。……あの雑誌は以前見たことがなかったが、読んですっかり感心した。将来、今日最も必要としているような雑誌に発展するかもしれない。いつでも困ることは、だれかひとり底ぬけの善人がいないと、雑誌が生きていけないということなのだ。『ポリティクス・アンド・レターズ』もどうやらもはや足元があぶなくなっている……。(小池滋訳)

 じつはだいぶ前にオーウェル評論集を編集したとき、収録した「作家とリヴァイアサン」の解題でこの雑誌にふれたのだが、現物を見ることができず、「『批評家とリヴァイアサン』シリーズ」の中身がどのようなものか、確認できなかった。それで、この手紙の引用のあと、「どうやら底ぬけの善人はいなかったらしく、この雑誌は短命だった」などと書いてお茶を濁してしまったのだった。遅ればせながら今回初めて(とりあえずタイトルだけ)見ると、第1号ではR.O.C. Winklerが"Critic and Leviathan"、その直後にChristopher Hillによる"A Comment"、次の第2-3(合併)号では"Critic and Leviathan(3)としてF. R. Leavisが"Literary Criticism and Politics"、同(4)としてLionel Elvinが"David and Goliath"を寄稿している。第4号のオーウェルの当該エッセイは、目次では"Critic and Leviathan: A Comment"と記されているが、本文では"Critic and Leviathan(5)/Writers and Leviathan"となっている。
 作家は政治から逃れることはできない(あるいは逃れてはならない)にせよ、国家統制の時代において、オーソドクシー=正統的教説に屈伏・追随して作家としての自己を殺したりせず、いかにしてインテグリティを保つか――という問いに対して、作家はその生活を二分するしか手がない(そうすることによって「正気の自己の産物」を表現する道を確保しておく)という一見「敗北主義的」あるいは「ふまじめ」な方策をこのエッセイは結論部分で提言している(これは当時仕上げにかかっていた『一九八四年』の主人公ウィンストン・スミスの日記執筆の身ぶりと重なる、doublethinkとは別種の「二重思考」?)。ウィンクラーやヒル、リーヴィスらの「批評家とリヴァイアサン」のリレー連載、あるいは第1号所収のウィリアムズの長文エッセイ"The Soviet Literary Controversy in Restrospect"の議論などをふまえてこのエッセイを書いているのだろうから、それらおよびこの雑誌全体の論調を見てコンテクストをちゃんとおさえたうえで「作家とリヴァイアサン」を読み直す必要がある。そういうことはとっくにしていなくちゃいけなかったことなのだが。