デザイン会議、ルイス、ハマスホイ

ノリッジ大聖堂

 ロンドン、ノリッジと回って、1週間ぶりにランカスターに戻ってきた。ノリッジイースト・アングリア大学Sainsbury Institute for the Study of Japanese Arts and Cultures主催の2日間のコンファランス(Words for Design: A Comparative Study of Design Terminology)出席のため。発表はせず、ただの聴講だが、オーガナイザーの畏友F大兄から「イギリス滞在中なのだから参加してみては?」と声をかけられて顔を出した。彼が編者になっている『芸術と福祉』(仮題)の分担執筆の原稿の締め切りが昨年暮れだったのだが、それを書き終えて提出したのがつい数週間前のこと。半年も遅らせてしまって(しかも結局大したことも書けず)申し訳なかったが、彼の忍耐強さと鷹揚さはとても真似できないと感心。そういう大人(たいじん)に声をかけられて、出かけないわけにはいかない・・・
という事情だけでなく、テーマ自体も興味深いものだった。日英、それにラテン語圏の美術史・デザイン史家たちによるdesignをめぐるさまざまな用語、とりわけ"design"という語そのものが、日本のみならず、西欧各国でどのように受容され、そこにいかなる共通点と差異があるか、という「語」の国際比較研究と、デザイン研究の(隘路と)可能性を議論する場として、いろいろヒントをもらった。一日目夜のディナーでは、たまたま座った席が対面にメキシコ人、左右にポルトガル人とスペイン人というラテン系研究者の濃いテープルで、哄笑がひときわ高かった。発表の合間にはノリッジ大聖堂のツアーもあった。大学附属のセインズベリー記念アートギャラリー(Robert and Lisa Sainsbury Collection)はフォークアートとモダンアート(フランシス・ベイコン、ヘンリー・ムーア、ジョン・デイヴィス、ジャコメッティら)を同一フロアに並置するディスプレイがおもしろかった。

 ロンドンではイギリスが初訪問という姉を案内して市内観光につきあい、ヒースローまで見送るのが主たる目的だったが、その合間をぬって、目下開催中の展覧会を二つ見る。

 ひとつは、ナショナル・ポートレイト・ギャラリーでのWyndham Lewis Portraitsウィンダム・ルイス(1882-1957)の肖像画家としての仕事に光を当てたユニークな特別展。さまざまな自画像と、T.S.エリオット、パウンド、スティーヴン・スペンダーら文人、またパトロンたちの肖像画を時代順に並べ、室内中央にはBlast誌やTarr, Hitlerほかの自著が展示され、著述家=ポレミークとしての仕事も重ね合わせつつ、肖像画家ルイスのキャリアを回顧できるように図られている。ルイスのエリオット像は時期の異なる2枚が展示されているが、早い方は1938年にロイヤル・アカデミー委員会が受け入れを拒否したことで「事件」となった作品。今回の特別展の看板として、カタログの表紙にもなっている。これ、私のイメージするエリオットとは似ていない、強いて言うとエリオットとルイスを足して二で割ったような肖像画か? 左上のファルス的なスクロールとそれに対応する右上のくぼんだスクロールが物議をかもしたと説明されている(そう問題がある表現とも思えないのだが)。後年の絵が特に異様にくすんでいるのは第一に目を病んでいたため(1951年に完全に失明)だが、自分の播いた種とはいえ(やばい政治的言説はもとより、日常的な人間関係において、人の気分を害する力も抜群だった)、自身の陥った後半生のつらい境遇も反映していて、そのくすみの痛々しさに、"Self Condemned"のポエジーがあるといえるのかもしれない。妻フロアンナを描いた作品(くすんだ赤の色調のRed Portraitなど)が特に心に残った(会期は10月19日まで)。

 もうひとつは、ロイヤル・アカデミーで開催中の特別展(Vilhelm Hammershøi: The Poetry of Silence)。デンマークの画家ヴィルヘルム・ハマスホイ(1864-1916)の回顧展。大まかには象徴主義の画家と見ることができ、没後のモダニズム全盛期に忘却された後、20世紀の最後の四半世紀にラファエル前派やベルギー象徴派などが再評価された際に、この画家も多少見直されるようになったとはいえ、60点を超える作品を集めた今回の展覧会がイギリスでは初の本格的な彼の回顧展だという。私自身も、バーン=ジョーンズについて書いたり訳したりしていながら、その画風とある点で深くつながるハマスホイについては最近まで特に注目せず、両者に造詣が深い美術史家のHさんに注意を促されたのだった。展覧会のタイトルが「沈黙の詩」とあるのは言い得て妙で、戸外を描く風景画(彼の描くロンドンはクノップフブリュージュのタッチを想起する)も含まれるが、作品の大半は自宅の室内、そこに一人の女性が描かれる(インテリアだけの場合もある)。最も多くの場合、それは背を向けた立ち姿で描かれていて、表情が見えない。後ろ向きでなくても、視線は(出品されている一枚を除いて)決してこちらを見ることはなく、目を伏せているか、わきを向いているかして、決して画家(あるいは鑑賞者)と視線を合わせようとはしない。視線恐怖症肖像画と称したらいいのか(Hさん、ひとつにはこの点に惹かれました?)。なぜか例外の一枚は、室内の遠景に(したがって小さいが)こちらを見据える女性を描いていて、ほかの絵を見た後でこれにぶつかると、視線が強く感じられて、こちらがどきまぎしてしまう。色調は、ルイスのとはむろん質感が異なるが、くすんだグレイが基調で、窓から差し込む日光(に揺れる埃の粒子)、木製のテーブル、数脚の椅子、戸棚、パンチボウル、数枚の皿、壁面の絵画、ドアの取っ手、アップライトのピアノといった、手持ちの簡素な小道具を必要最小限用いている。この画家の再評価がまず1980年代のアメリカで始まったのは、ミニマリズムのイディオムにある程度なじんで、ハマスホイの沈黙の詩学を理解するための土壌ができていたからなのかもしれない。この展覧会、会期は9月7日までで、そのあと日本に巡回するとのこと(上野の国立西洋美術館)。