バーンヒルまで

 スコットランド西部を旅行する。まずはグラスゴーの西ヘレンズバラにあるヒルハウス(Hill House)へ。20世紀初頭にチャールズ・レニー・マッキントッシュグラスゴーの出版人ウォルター・ブレイキーのためにデザインした邸宅で、現存するマッキントッシュの住宅建築のすぐれた作例とされる。クライド湾が望める高台に建つこの館は、外見はむしろ地味なものだが、見どころはなんといっても室内空間にある。抑制された色彩計画、様式化された花模様、例の長い背もたれのチェアー、その背もたれの上部や壁面のステンシル装飾などに共通して使われる格子模様(トレリスを示唆)、穴倉のように天井をアールで処理した寝室、曲線と直線の絶妙な配合、妻マーガレットの「ブライアー・ローズ」などの装飾画を配したコーディネーション――などなど、マッキントッシュのデザイン・イディオムがすみずみにまで駆使されている。

 そのような心楽しきデザイン空間を後にして、それとは別次元の場所にむかう。ジュラ島のバーンヒル(Barnhill)。ジョージ・オーウェル(1903-50)が晩年に住み、『一九八四年(Nineteen Eighty-Four)』を執筆した僻地の農場住宅である。ここにオーウェルが移り住んだのは1946年春のことで、47年暮れから半年ほど病気療養でここを離れ、48年7月に戻ってくるが半年ほど住んでまた療養のため離れ、その後1年の闘病生活の末にロンドンで死去した。したがって、この島に住んだのはわずか2年半ほどの短い期間だったのだが、オーウェル自身はここを仮住まいでなく終の棲家にするつもりだったようだ。

 とにかく文字どおりの僻地で、港がある南端とは反対の北端に近い。オーウェルの狙ったとおり、都会から簡単に行ける場所でない。ロンドンにいて、日々のジャーナリズムの仕事に追われて(その産物のなかに珠玉のエッセイが多く含まれているのだが)、構想中の本を書く余裕がない。それを仕上げるのには、「6か月間の静謐」と、「電話を受けることのできないどこか」を得るしかない、と当時の手紙にある。オーウェル在住時の60年前の記録では、ロンドンからここまで来るのに24時間は優にかかったという。いまでもアクセスの悪さはそう変わらない。私たちの場合はイングランド北部のランカスターから出発したのだが、ヒル・ハウスに立ち寄ったこともあるが、いずれにせよ交通の便が悪く、インヴァレリーに一泊したあと、キンタイヤー半島のケナクレイグまで下って、そこからフェリーで2時間かけてアイラ島のポート・アスカイグまで行き、さらにそこからジュラ島のフェオリン港まで乗り継いだ。そこから中心地クレイグハウス村まで車で20分。そこにたどり着いたところで夕刻となり、島唯一のホテル(ジュラ・ホテル)に投宿。隣り合うアイラ島とジュラ島は面積はそう変わらないのだが、アイラ島が人口3000人なのに対して、ジュラ島は200人に満たない。翌朝、朝8時に宿を出て東海岸沿いの唯一の車道を北に1時間走らせて、行き止まりの地点(The Road's Endという標識がある)で車を停め、途中鹿の群れや乳牛、各種の小鳥、鷲、それに花咲くヒースの野、ところどころに地肌を見せる泥炭層などを眺めつつ、でこぼこ道を4マイル(6.2キロ)歩き、2時間ほどしてようやくバーンヒルにたどり着く。「こんなところに住むとは、バカじゃあるまいか」と半ば思いつつ。

 いちばん近いお隣の家が7マイル南で、とにかく自身を人間世界(とくに都会)と隔絶しようという意図からすれば恰好の場所といえる。電話がないのはもちろん、郵便配達は週に二便、しかも島に着いてからバーンヒルに届くまでさらに一日かかった。ここでのくらしは見ようによっては悲壮感がただよい、ただでさえ物資が不足していたこの時期によりによってこんな過酷な環境にあえて身を置いて、『一九八四年』執筆で命をすり減らした殉教者オーウェル、というイメージができあがるわけだが、この場所を訪れてわかったこととしては、とにかくここは冒険的でわくわくするような楽しさがある場所だということ、お隣の観光化され、取り澄ました感じのアイラ島と比べてジュラ島は野趣に富んでいて断然おもしろく、そのジュラのなかでもさらに人の住まない奥地で、無人島でのサバイバルごっこをするような気分がある。それをほんとうに実行に移してしまうというのは、それこそ「バカじゃあるまいか」ということになるが、これこそが(私の見るところでの)「オーウェル風(Orwellian)」なのだからしようがない。ここで彼は養子にした3歳の幼子リチャーズとハウスキーパーを呼び寄せ(後に妹のアヴリルが同居し、さらに友人も手伝いに来る)、日々の食料確保のため、ほぼ毎日海釣りをし、ロブスター捕獲のためのポットを沈め、ウサギを撃ち、畑を作り(これは鹿にかなりやられた)、果樹を植えた。結核の診断が出ずに健康であればここにずっといるつもりであったことは、ロンドンのフラットやウォリントン村のコテージの借家権を手放したことからも察せられる。良くも悪くもschoolboyshnessという特徴がオーウェル(とその作品)に見られること、これは拙論(「オーウェルマザー・グース」)で述べたことがあるが、そうした子どもっぽさがこの島でのくらしを動機づけていたような気がする。「ボート遭難事件」ほか、ここでのいろいろな(多くはバカみたいな)エピソードは各種の彼の伝記に詳しい。

 ジュラ島、わずか2日間の滞在だったが、いやあおもしろかったこと、ぜひまた行ってみたい(いまごろ初訪問とは何事かとO山先生ほか、オーウェル研究の先輩方に怒られそうだが)。行くのにたいそう苦労する場所ではあるが、アクセスが劣悪というのはむしろよいことかもしれない(開発も進まないし)。「ジュラのおっぱい(the Paps)」の山容は見事だし、(なんという名前だったか)この島特有の立派な鷲もまた見たい。道々視界に広がる海の光景も変化に富み、忘れ難い。バーンヒルの家の2階西側の寝室にオーウェルはタイプライターを備え、そこで『ヨーロッパで最後の人間(The Last Man in Europe)』(脱稿時の年号の下二けたをひっくりかえして『一九八四年』というタイトルにしたのは書き終えてから出版社の助言を受けてのこと)の執筆、推敲の作業に当たった。夜中に階下のキッチンにいると、キーを叩く音が上から聞こえてきたことを滞在した友人が回想している。部屋の窓は南南東に向いていて、海が真正面にのぞめる。小説の舞台となるオセアニア国の首都「エアストリップ・ワン」のモデルの地、大都市ロンドンはその500マイル彼方にある。空の青、海の青を眺めつつ、それを想起することがたびたびあったのかどうか。