ヴェネツィアのラスキン学会(続)

 今度の学会は、ゲスト・スピーカーによる「プリーナリー・セッション」を除いて、一か月前にそれぞれがペーパーの全文(2500〜3000語程度のfull text)を提出し、それが学会用のサイトにアップされ、当日の発表では各自その要旨を5~7分で説明し、ディスカッションに多くの時間を費やすという方針で進められた。ひとつのパネルで4〜5点のペーパーが割り当てられ、その数に関わらず持ち時間は一律90分だった。40分以内で発表は終わり、残りの50分をじっくりと討議に費やす、という狙いだった。私自身にとってのみならず、このやり方は少なくともラスキンの学会については新機軸だったようだ。やってみると、長短両面があるのがわかった。
 長所としては、まずはもちろん、あらかじめフルテクストに目を通してくることによって、より踏み込んだコメントや質問が可能となり、議論がより活発なものとなりうる。また、特に私の場合など、締切から逆算して原稿を書く質なので、従来の形式だと、前日に追い込みで徹夜するということになりかねない(過去の発表の多くがそうで、概ね結果オーライだったが、時々破綻した)。その点、1月前に締切が設けられていたというのは、提出直前が忙しかったものの、そのあと余裕がもててよかった。今回の締切日は8月22日で、それが3日後の25日にはウェッブ上にアップされていた(準備に当たったローレンやレイチェルは実に有能で、イギリス人の事務能力について私は考えを改めることになった)。最後まで原稿を出さなかったツワモノが数人いたが、概ね締切を守った。
 短所としては、5〜7分の要旨説明というのはあまりにも発表時間が短かったということ。今回は各パネルの司会者のあいだでしっかりと申し合わせがなされていたようで(事前に来たメールを読み返してみると、“Please note that the Chairs will enforce the time limit of 5-7 minutes on your paper synopsis.”という注意書きが見られる)、発表者に時間厳守の注意を促すことが頻繁に見られ、その注意を受けて、用意した原稿の半分にも達していない発表者が愕然とした表情を浮かべて、あわてて結論部に飛ぶ、というケースをよく見かけた。また、フロアのみなが事前にウェッブ上の原稿を見てきているわけではなく、フルテクストで論じていることについて質問が出て、「それは原稿に書いておいたのですが」と答えることが再三あった。私が出席したなかでは、質問がほとんど出ないものだから、司会者が60分で打ち切ったパネルもひとつあった。
 私たちは3日目の午前中に日本関係の “Japan & Ruskin”のパネルでまとめられた。民芸運動とアーツ・アンド・クラフツ運動を対比してその「影響の不安」を論じたNさん。ラスキンの晩年の「精神疾患」を扱ったSさん、ラスキンの唯一の童話『黄金川の王様』の日本での受容を論じたMさん(私の研究室の院生)、そして私はラスキン文庫の理事長との共同発表で「御木本隆三と東京ラスキン協会」について報告した。司会は気の置けないスティーヴン(ランカスター大学ラスキン・ライブラリー館長)だったので、実は前日に「談合」して、発表時間を伸ばしてもらいたいと願って、「10分までなら」としぶしぶ認めてもらっていた。そのため、4つのペーパーとも、途中で止められることもなく進めることができた。40分ほどのディスカッションもまずまずだった。

 話が前後するが、2日目の夕刻は、出席者全員で船をチャーターして40分ほどの距離にあるトルチェッロ島に行き、サンタ・マリーア・アッスンタ教会の見学とその近くのレストランでの「コンファレンス・ディナー」に出た。ビザンティン様式の円柱やモザイクが見事なその教会は、ラスキンが『ヴェネツィアの石』第二巻第二章「トルチェッロ」のなかで詳細に論じているところで、ランカスター大学の「生き字引」と称されるマリオンが堂内で「旅行者版」の『ヴェネツィアの石』を取り出し、説教壇の描写などの名高いくだりを朗読し、みながそれに耳を傾けるという一幕があった。ディナーの出席者は100人近くいただろうか。ラスキンがらみでよくこれだけの人が集まったものだと驚嘆した。
 私自身は「学会活動」というものに従来あまり熱心でないもので(以前にmelaniekさんから「無協会派」と呼ばれた覚えがある)、ラスキンの国際会議も初めての参加となった。出ればいいというものではないが、触発される部分が多くあったし、かねがね畏敬の念を覚えていた何人かを含め、各国の研究者を直に知るよい機会にはなった。北米のラスキン研究をリードするジム(最終日の夜、夕食の前後に即席のラスキン・ツアー・ガイドをしてくれた)からは、「次は日本で国際会議をしてみたらどうか」と勧められた。やるとなると大変だが、K大のラスキニアンChiakiさんあたりと相談して、いずれ考えてみようか。
 長めになった「学会報告」は『ヴェネツィアの石』で終えることにしよう。この大著(全3巻、1851, 53年)は、ビザンティン、ゴシック、ルネサンスというヴェネツィアの建築史の流れをたどったというのにとどまらず、それを記述しながらも、ラスキンの念頭に常にあったのは同時代のイギリス社会の現状だった。書き出しの一文からそれは明らかである。以下、拙訳で。

海洋に対して人の支配力が最初に行使されて以来、三つの群を抜く玉座が砂上にうちたてられた。すなわちテュロスヴェネツィア、英国の三つの玉座である。これらの大国の第一のものは記憶に残るのみ。第二のものは廃墟があるのみ。第三のものは、前二つの偉大さを受け継ぎながらも、それらの前例を忘れるならば、さらに奢れる栄華を誇ったあげくに、いっそう同情の余地のない破滅へと至るのではあるまいか。

この危機意識、批判精神が最も先鋭に発揮されたのが、同書の第二巻第六章「ゴシックの本質」である(これは拙訳で近刊)。中世ヴェネツィアの創意あふれるガラス細工と、ヴィクトリア朝の過酷な労働現場で作られたビーズ玉といった対比を用いてなされた「労働の質」をめぐる倫理的、政治的考察は、美術・建築批評家としての通常の枠組を超えて、『この最後の者にも』(1860年)でなされるような、後年の社会批評家としてのラスキンの思想的展開を予想させるものだった。
 ――と、ここで文を終えると収まりがよいのだが、ちょっとばかり複雑にしてしまおう。先に挙げたティントレット評価の矛盾もそうだが、ラスキンは政治面では保守反動とラディカリズムの両面を併せ持ち、その著作は矛盾を多くはらんでいて(文体そのもののやっかいさもあるが)、ほんとうに一筋縄ではいかない。サイードラスキンを「帝国主義者」の一語でほとんど片付けたが、Ian BaucomがOut of Placeで見たように、彼の中世=ゴシック主義の主張が植民地の文脈に置かれたときに果たした文化的な抑圧装置という側面は確かにあって、この点を併せて見る必要があるだろう(ラスキン研究者、特にイギリスの研究者は、気持ちはわかるけれども、この点を避けたがる)。「ゴシックの本質」を訳していて、英国の労働者の窮状を問題にする一方で、アイルランドのジャガイモ飢饉に由来する農民反乱を断罪し、彼らの大義にまったく共感の念がないということに驚きを覚えた。その一方で、マルクスとならんで、1880年代に興隆するイギリスの社会主義運動の重要な影響源のひとつとなったことも事実だし、初期の英国労働党の議員たちにアンケートをとったところ、彼らに最も強い影響を与えた書物として『この最後の者にも』を挙げる者が最も多かったというエピソードもある。この「複雑な彼」について、少なくともしばらくは私の興味は尽きないだろう。『プラエテリタ』もいずれじっくり論じてみたい。ラスキン晩年のこの自伝を小野二郎は「錯乱の色濃く、死の影のにじんだ」と形容しているが、その「錯乱」と「死の影」を表現する文体は(これは8月のブログ(「ブラントウッド再訪」)で書いたことの繰り返しになるが)彼の著作中でもひときわ清澄で、嘘かほんとか、プルーストがその全文をそらんじていたというのもよくわかる。