ワイルドの講演など

 日曜日、自宅から車で20分ほど北にいったWarton Cragを歩く(Carnforth近郊)。石灰石の石切り場だったところで、場所柄から羊の牧草地にはできないためだろう、雑木林が多くあって所々日本にいるような感じになる。
 西側の遊歩道、モーカム湾が望めてよい眺めだが、風が強くて寒い。耳が痛くなる。

 夜、Ian, Sue宅に招かれて夕食。一緒に招かれたJohn, Wendy夫妻とは初対面。Johnはランカスター大でIanともと同僚で(すでに定年退職)、昆虫学(entomology)がご専門。ランカスターにゆかりのある家具商Gillowsのコレクターだとのことで、その家具のすばらしさについて、熱のこもった話をうかがう。

 月曜日、夕刻、ランカスター大にてTerry Eagletonの公開講演を聴く(彼は昨秋から同大学英文学教授となっている)。お題は‘The Doubleness of Oscar Wilde'. Faraday Lecture Theatreという大きな階段教室にて、オーディエンスは200名ほど。同郷のジョイスの語呂合わせ‘Doublin’を引いて、性的アイデンティティのみならず、ポリティクス、ナショナリティ、階級、モラリティ、言語に相互に関わるアンビギュイティあるいは「両刃性」を、19世紀末のロンドンの演劇(文化)状況さらにはアイルランド-イングランドの政治状況のより広い文脈に置いて考察。既発表のいくつかのワイルド論を焼きなおしたもので、さほど新味はないと思えたが、話はうまくて、仕込んだギャグもよく受け、最後は自作のSaint Oscarのさわりを朗読して終える。「エンタメ性」は十分にあった。

 ラディカルなワイルド読解ということでいうなら、小野二郎ウィリアム・モリスと世紀末――社会主義者オスカア・ワイルド」がある(『装飾芸術』所収)。これはワイルドの「社会主義下の人間の魂」を扱ったもので、長谷川四郎が作った雑誌『自由時間』に1975年に発表された。中野好夫はワイルドのこのエッセイを「ただ芸術家の身勝手気ままを、一応尤もらしい擬似アナーキズムの衣装で包んだにすぎぬ」「まことに稚気に溢れた」「論外」のものとして片付けたのだったが(『英文学夜ばなし』)、小野はそれを「論中」のものとして、社会主義の原理論の重要なテクストとして読み直している。ワイルドの社会主義論(そして芸術論)を論じたものとして白眉と思えるのだが(文字通り「寡聞」のためだろうが、これ以上のものを私は知らない)、埋もれてしまっているのが残念。これを含めたエッセイ集を文庫版で企画してみようか、などと、こういう折にふと思ったのだった。あと、花田清輝の1930〜40年代のワイルドの読みは鋭かった。いずれも、もちろん英語圏では無名ということになるが。
 講演会のあと、レセプション。イーグルトン教授と少し話をする時間があって、特に興味を示したのがレイモンド・ウィリアムズの話題になったとき。翻訳の企画を進めていることを話すと、日本語になっていないのか、とおっしゃるので、多少出ているが、あなたみたいには出ていない、とお答えする。