War and Medicine

 今日のランカスターはひさしぶりの快晴。
 ロンドンで見た展覧会でまだふれていないのがあるので、備忘録として書き留めておく。ウェルカム研究所のギャラリーで開催されている「戦争と医療」(War and Medicine at Wellcome Collection)。
 そのカタログとして以下が出ている。

War and Medicine

War and Medicine

 1850年代のクリミア戦争から現代のアフガンやイラクでの戦闘にいたるまでの、150年間を射程にして、「戦争と医学の絶えず進化し続ける関係を考察」(HPの説明文より)することを狙った展覧会。
 クリミア戦争で多くの兵士が伝染病と飢餓で死んだ反省にたっての衛生学の進歩、また戦場での食糧調達のシステムの効率化がはかられたことが、薬箱などの道具と、兵士や外科医らの文書、また戦場の記録写真、絵画などで示される。国家が戦争用の兵器を時とともに発展・洗練させるにつれて、戦傷の様相も変化する。その変化に対処して、適正な治療をほどこすべく、医療技術が改善されてゆく。そして戦争が医学に強いた「進歩」が平時の社会政策などに寄与する。戦争と医療の関係が医学研究の進歩を促すとする見方には一定の根拠があるわけだ。たとえば第一次大戦の毒ガス兵器の使用は形成外科の飛躍的な発展をもたらした。他方、戦争を効率的に組織する一手段としての医療技術は適切な医学の進展を妨げているとする議論が当然ある。戦争と医学(医療)の逆説的な相補性についての議論は未解決のままであり、この展覧会はその倫理的思想的ディレンマを提示せんとした試みとしてユニークなものだといえる。
 これを見ながら、以前にテレビで見たベトナム戦争での医療の「進歩」のドキュメンタリーを思い出した。うろ覚えだがこんな趣旨だった――米軍の軍医が、爆撃で足を付け根からもがれるような重傷を負った米兵に対して輸血の措置を取っても死亡率が高いので、輸血量をふやしてみたが、死亡率はいっこうに下がらない。たまたま、応急措置を取ることができない状況にあって、輸血ができず放置せざるをえなかった負傷者のほうが、生存率が高いことが(戦争のかなり遅い時期に)ようやく判明した。つまり、そうした手足を切断された重傷患者に(そうした状況で)輸血をほどこすのは自らの止血の能力に干渉する逆効果をもつものだった。戦場下の医療の当局が、おびただしい血を流し、おびただしい量を輸血した(そしてそれもまた無駄に流した)多くの患者の症例から、そうした「自然治癒力」をようやく認識するに至ったということで、これも「戦争による医学の進歩」ということになるのかもしれない。しかし、そんな「進歩」のためにおびただしい血を流す必要など、もちろんなかった。
 「展示品には、ご覧になってdisturbingに思われるものもあるかもしれません」という注意書きがあった。まあ、損傷した手足、顔のイメージやら、義足や義手、義眼といった器具やら、ガスマスクやら、あるいは軍医が使う手術器具の変遷などを「平穏」に眺めていられる人のほうが少ないだろうと思うが、「治療と恢復をはかろうとする人間の欲求が、傷つけ殺す私たちの能力と常に歩調を合わせようとしているさま」(HP)を内省する機会になる展覧会だった(会期は2月15日まで)。