あるポピュラー音楽論

午前3時半に起きてワールドカップ女子サッカー準決勝日本対スウェーデンをTV観戦。準々決勝の対ドイツ戦に比べるとかなり軽々と勝った感じ。偉いものだ。
 そのまま眠るまもなく、編集作業を少ししてから、9時20分に出勤。2時限目、イギリス文化演習II。期末レポートについて受講生の半分に個人発表をしてもらい、もう半分にコメンテイターの役割をふる。この授業でこの形式をとるのが初めてということもあり、内容的にはいまひとつだった。午後1時、来年度の担当科目についてイギリス分野の教員で打ち合わせ。2時、文学部教授会。4時に終了。残務を済ませて8時に帰る。
 必要があって、アドルノアメリカ時代の論文「ポピュラー音楽について」(1941年)を読み直す。これは邦訳あり(「村田公一訳、『アドルノ 音楽・メディア論集』(平凡社、2002年)。

ポピュラー音楽に耳を傾けるという行為は、それを販売促進しようとする人々によって操られる、というだけではなくて、この音楽そのものが持つ固有の本性(ネイチャー)によっても操られるのであり、その結果、自由(フリー)で寛容(リベラル)な社会に生きる個人、という理想とは全く相容れないような、機械的な反応(レスポンス)のメカニズムの中にからめとられることになる。 

「規格化」「規格の冷凍保存」、文化産業に開かれたマーケットと自由選択という後光を与える「疑似的個人主義化」、「グラマー」「赤ん坊言葉」…といった用語を使いつつ、人びとがポピュラー音楽にのめり込むメカニズムを冷徹に分析したこのエッセイは一連の「文化産業」批判の一部を成す。この関連でちょっと調べていたら以下の動画にぶつかった。

論文の書法と比べてとても単純な語り口であるけれども、上記の論文の主意は結局ここで言っていることなのだろう。大事なポイントを突いていると思うが、厳格なアドルノさんのよい読者とは言えない私は、概ね話半分で聞いておくことにしている。「ポピュラー」な産物に突破口を見出そうとするモメントが、この方向だと上から蓋をかぶせられてしまって、身動きができなくなってしまう感じなので。