「ゴシックの本質」

朝6時から2時間ほど、本の編集関連の作業。9時20分出勤。2時限目、院のイギリス文化講義前期最終回。ラスキンの『ヴェネツィアの石』(1851-53年)、とくにその第2巻第6章「ゴシックの本質」をめぐって。中世ゴシック建築を扱いながら、この章では同時代のイギリスの産業労働者の置かれた境遇と、分業による工場生産システムが痛罵されている。ウィリアム・モリスはこれを学生時代に読んでおり、聖職者からアーティストへの進路変更にこれが大きく作用したらしいことは、40年後に自身のケルムスコット・プレスでこの章を単独で印刷した際にそれに付した序文に明らかである。

 もう大分昔のことになるが、われわれがこれを最初に読んだとき、これから世界が進むべき新たな道を指し示しているように思えたのだった 。そして四十年間に失望落胆の事態が多々起こりはしたが、また、その後われわれは、とりわけジョン・ラスキンがそうだが、その旅のためにどんな仕度が必要であるのか、またその仕度を済ます前にいかに多くのことがらを変えねばならぬかを学んできたのではあるが、しかし、文明の愚行と堕落から抜け出す道は、依然としてラスキンの示してくれた道以外には考えられないのである。
 というのも、ラスキンはここでわれわれに次のような教訓を与えてくれているからだ。芸術とは、人が労働のなかで得る喜びの表現であるということ。人が自分の仕事に喜びを見出すことは可能であること――というのも、今日のわれわれには奇妙に見えるかもしれないが、人が仕事に喜びを覚えていた時代があったのだから。そして最後に、人の仕事がもう一度その人にとっての喜びとならぬかぎりは――その変化が生じたしるしは、美がもう一度生産的労働の自然かつ不可欠の付随物になることだろう――無益なる者たちを除くあらゆる人々が苦痛に満ちた労役につかねばならず、したがって苦痛をもって生きねばならぬということ、これである。そうなると、この大地で人間が数千年にわたって精力を傾けてきたことが、結局は人類全般の不幸と全面的な堕落をもたらすことにしかならない。人間の知性や知識や物質界に対する支配力が増大するにつれて、こうした不幸と堕落が重荷としてますます強く自覚されてゆくことだろう。

 このモリスの序文、そして「ゴシックの本質」本文そのものを日本語訳で出す計画が以前からあって、その作業はおよそ3年前に完了していたのだったが、刊行にむけてようやく動き出した。秋には出せる予定。
 3時限目、卒論ゼミ、これも前期最終回。5人のイントロダクションの発表。3時、常務理事、研究支援課長、経理課長と科研費の緊急問題について相談。震災の復興予算の不足分の捻出のため、今年度の科研の決定済み交付金額を3割カットする可能性があることを日本学術振興会が通知してきた。減額の含みを持たせて、とりあえず「分割」で7割を交付とのこと。たいへん困った。
 4時45分、遅れて英文学科内の会議に出席、長引いて7時まで。8時まで残務。目白駅近くの揚子江で同僚たちの打ち上げに合流、1時間ほど過ごし、10時半に帰宅。