魂と関係

いつになく「魂」という語を思ったら、20歳代で出会ったふたつのパッセージがよみがえった。
ひとつは木島始の詩「とむらいのあとは」より――

 たおれたひとの
 たましいが
 うたえなかったもの
 ゆめみよう


 銃よりひとを
 しびれさす
 ひきがね ひけなくなる
 歌のこと


もうひとつは散文で、花田清輝の『復興期の精神』(1946年)所収の「群論――ガロア」の結句。(「よみがえった」といっても丸暗記しているわけではなく、手元の文庫本から写す。)

ガロア群論を、新しい社会秩序の建設のために取りあげることは、おそらく乱暴であり、狂気に類することかもしれない。しかし、人情にまみれ、繁文縟礼にしばられ、まさに再組織の必要なときにあたって、なおも古い組織にしがみついている無数のひとびとをみるとき、はたして新しい組織の理論を思わないものがあるであろうか。さらに又、再組織された後の壮大な形を描いてみせ、その不能性を証明されると、たちまち沈黙してしまうユトピストのむれをみるとき、問題の提起の仕方を逆にして、まず組織の条件の探求を考えないものがあるであろうか。かれらの人間性を無視して、かれらにむかって突撃したい衝動を感じないものがあるであろうか。緑色の毒蛇の皮のついている小さなナイフを魔女から貰わなくてもすでに魂は関係それ自身になり、肉体は物それ自身になり、心臓は犬にくれてやった私ではないか。(否、もはや「私」という「人間」もいないのである。)


後者の「群論」は、初出は1942年とある。大東塾の連中に暴行を受けたのはこれより後のことだったか。
なんのつながりがある? 説明しようがないが、「魂」という鍵語で、ふたつを思い出しただけのことだ。