ディストピアの言葉づかい

 日本国の現政権の問題を指摘するのにジョージ・オーウェルの名前がしばしば出てくるのは当然のことであろう。じっさい、現政権が憲法違反の安保法制を押し通そうとしている光景は、オーウェルの『動物農場』の世界を彷彿とさせる。考えてみるとこの物語の筋立てというのは、「動物共和国」成立に際して制定した憲法が、特権化した一部の動物の仕組んだテロと欺瞞的な言語使用によってなし崩しにされて(つまり民主的な手続きを経ずに憲法が破壊されることで)独裁国家に変わり果てるというものだ。原作の発表は1945年の8月なので、まさに70年前ということになるが、この70年で日本がこれほど「オーウェル的」状況に突き進んだことはなかったのではないか。そう思うと改めて愕然とする。
 しかしいま、「アベ政治を許さない」という大きな運動のうねりがある。この「アベ政治」の一要素として、白を黒と言いくるめて他者をたぶらかすことを狙った不誠実な言葉づかいがあるように思う。政治を腐敗させる無責任で虚偽に満ちた言辞への憤りをいま多くの人びとが表明している。そのことに希望がもてる。
 以下、以前に書いた拙文のなかから、『動物農場』での政治と言語の問題について述べたくだり(岩波文庫版『動物農場』解説「ディストピアおとぎばなし」より)を一部アレンジして掲載する。ご参考まで。

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 『動物農場』とそのあとに書かれた『一九八四年』とを比べると、前者が動物寓話の「おとぎばなし」、後者が自然主義小説と、たがいに異なる形式だが、スターリン体制をひとつの典型とする全体主義的な心性を表わそうという共通の目的をもち、さらに政治権力と言語問題との相関関係に重大な関心をはらっている点でも共通する。
 オーウェルはエッセイストとしても良質の仕事を残した(エッセイのほうが重要だとする評価もある)。そのひとつ「政治と英語」(1946年)のなかで、かれは「婉曲法と論点回避と、もうろうたる曖昧性」からなる現代政治の言葉を批判し、政治の堕落と言語の堕落が強く結びついていると述べた。政治の革新に必要な第一歩は、直裁簡明な言語によって明確に考えることだ。言語から改善すれば、政治をいくぶんかでも良くできるだろう。しかしその反対に、言語を周到に、修復不可能と見えるまでに悪化させてしまった社会はどのようなものか。オーウェルは二つの物語でそれを想像し、提示したのである。
 『動物農場』では政治の悪化を示す言語使用の状況は二つの面で語られる。ひとつは動物たちの憲法にあたる「七戒」の改竄(かいざん)。これは条文の最後に但し書きを加えることでなされる。「動物はベッドで寝るべからず」とあったのが、豚が人間のベッドを使うようになると「シーツを用いて」という句が加わる(第6章)。

(第4条)No animal shall sleep in a bed.(動物はベッドで寝るべからず」
(改竄版)No animal shall sleep in a bed with sheets.(動物はシーツを用いてベッドで寝るべからず)


 「酒を飲むべからず」は、豚が飲酒にふけると「過度に」が加わる(第8章)。
(第5条)No animal shall drink alcohol.(動物は酒を飲むべからず)
(改竄版)No animal shall drink alcohol too much.(動物は過度に酒を飲むべからず)


 危険分子の粛清がはじまると、「ほかの動物を殺すべからず」には「理由なしには」という句がつく(第8章)。
(第6条)No animal shall kill any other animal.(動物はほかの動物を殺すべからず)
(改竄版)No animal shall kill any other animal without cause.(動物は理由なしにはほかの動物を殺すべからず)


 これらの追加の但し書きは原文では“with sheets,” “to excess,” “without cause”と、いずれも二つの英単語からなり、これをセンテンスの末尾に加えるだけで、まるで「おとぎばなし」の魔法のように、禁止事項が限定的な許可を示す条文に反転してしまう。きわめつきは最後の第七条「すべての動物は平等である」で、そのあとに「しかしある動物はほかの動物よりももっと平等である」が加わり、「平等」という語が無意味に(あるいは、それが何らかの意味をもつとすれば、ねじまげられた意味に)されてしまう。
(正規の条文)All animals are equal.(すべての動物は平等である)
(改竄版)All animals are equal, but some animals are more equal than others.(すべての動物は平等である。しかしある動物はほかの動物よりももっと平等である)


 『動物農場』での言語の堕落は、さらに宣伝係の豚スクィーラーの詭弁によっても示される。その特徴は「政治と英語」でオーウェルが「大げさな言葉づかい」と名づけているもの(これも一種の「婉曲法」に入る)、つまり「単純な言明を過度に飾りたて、偏った判断を科学的に中正であるかのように感じさせるために使われる」言葉づかいである。使用語彙もギリシア語やラテン語起源の音節の多い抽象語の頻度が高い(これはスノーボールの発言部分でも目立つ特徴である。日本の詭弁政治家・官僚の場合は怪しい漢字熟語やカタカナ語の頻用ということになろう)。分かりやすい単語を基本とする地の文が背景にあるので、「長たらしい」単語が突出し、そのコントラストのために、新たな権力者となった豚たちのグロテスクな言語使用の実態がはっきりと浮かびあがって見える。たしかに動物農場においても、政治の堕落と言語の堕落は不可分に結びついている。
 そういうわけで、エッセイ「政治と英語」で示した提言の陰画が『動物農場』に描かれていると見ることができるだろう。このテーマをオーウェルは『一九八四年』でひきつづき追究することになる。そのディストピア世界では、使用語彙の削減や統語法の組織的な操作によって、一般市民が反体制思想をいだけぬようにする「ニュースピーク」の原理が、独裁体制を保持するために必須の装置となるだろう。




安全保障関連法案に反対する学者の会 2015年7月20日、東京、学士会館(最後列からの眺め)