「奴らを通すな!」 1936年10月4日の「ノーパサラン!」

 79年前の1936年10月4日も日曜日だった。その日、ファシズムに対抗する重要な出来事がイギリスであった。場所はロンドンのイースト・エンド、労働者階級の居住地区で、移民労働者、特にユダヤ人が多く住む。そこにオズワルド・モーズリー率いる英国ファシスト連合(BUF)が反ユダヤ人デモを企画、2千〜3千人規模でホワイトチャペルから行進を始めたところ、それを阻止しようとしておよそ10万人の人びと(ユダヤ人やアイルランド人を含む地域住民、社会主義者コミュニストアナキストら、30万人という説もある)が街頭に出て、バリケードを築き、「ノーパサラン!」をスローガンにBUFと警官隊に対抗した。

 上の写真(Tower Hamlets Archive picture)は当日のガーディナーズ・コーナー。BUFの隊列がホワイトチャペル大通りに侵入しようとするのを群衆が阻んでいる。この時警官隊が治安維持のために6千人規模で出動していたが、地域住民を守るためというよりは、「合法的」なBUFのデモのためにバリケードを解除してファシストを通してやるためだった。通りに住む家々から女たちはゴミ芥や腐った野菜や糞尿を警官隊に投げつけて抗議した。モーズリーとBUFの隊列はデモを強行しようとしたが、ケーブル・ストリートで最も激しい抵抗にあって結局撤退した。



 ケーブル・ストリートの一角には、反ファシズム行動のこの歴史的勝利を記念した壁画が制作され、いまも見ることができる。ロンドン、タワー・ハムレット区、シャドウェル駅を降りて西に少し歩くと、タウンホールの西側の壁面にこれが描かれているのが目に入る。この歴史画をここに描くことが区議会で認められ、完成したのは1982年のことだった。極右団体のいやがらせで壁画が傷つけられることが再三あったが、住民の寄付と区の予算によって修復と保護の費用がまかなわれている。この「コミュニティ・アート」の重要な作例について横山千晶はこう述べている。

 《ケーブル・ストリートの戦い》は、描かれている壁面が平面とは思えないほど立体感と動きと喧騒に満ちた作品である。現在この壁画は芸術作品として評価されるだけでなく、間違いなく町のひとつの顔であり、町の歴史の語り部でもある。だからこそこれを守ることは町の義務となる。2007年7月、地元住民からの壁画保全の要望を受け、審議を重ねた結果、同議会は2008年1月に「ケーブル・ストリートの壁画(パブリック・アート)の維持と保全のため、8万ポンドを計上する」ことを決定した。(横山千晶「芸術とコミュニティ」『愛と戦いのイギリス文化史1951-2010年』慶應義塾大学出版会、2011年、87頁)

 「ノーパサラン!」(¡No Pasarán!)というスペイン語のスローガンは、同年の1936年7月にスペインの反ファシストの指導者で伝説的な女性闘士「ラ・パッショナリア」(「情熱の花」=「トケイソウ」)ことドローレス・イバルリ・ゴメスがバルセロナファシストの反乱軍との戦いにむけて連帯を呼びかける演説に出てくる。その語句がふくまれるくだりは以下のとおり。

私たちはとりわけあなた方に、労働者、農民、知識人に呼びかける。共和国の敵、人民の自由の敵をついに打ち破るための戦いにむけ、自分の持ち場に着こうではないか。人民戦線よ、永遠なれ! 反ファシストの連帯よ、永遠なれ! 人民の共和国よ、永遠なれ! ファシストどもは通さぬ! ノーパサラン!(奴らを通すな!) (1936年7月19日)

 この「ノーパサラン!」がスペイン内戦中の共和国側のスローガンとなった。そして早くもこれが発せられた3カ月後にイギリスでのアンティファ運動で引用されたわけだ。「ケーブル・ストリートの戦い」はスペインの反ファシズム運動に連なるアクションとして自覚的に戦われたことがこのスローガンに示されている。
 数日前、毎日新聞の神奈川版に「記者のきもち:ノーパサラン」という記事が掲載されていた。今年9月16日に新横浜でおこなわれた安保法案に関する参院特別委員会の地方公聴会の会場で、法案に反対するデモの参加者の一部がこのスローガンを叫んでいるのを聞いて、記者は違和感を覚えたらしい。

 「憲法9条を守れ」とのボードを掲げた初老の男性が、困惑の表情を浮かべていた。「何という意味ですか」。尋ねられた私も分からない。インターネットで検索し、「やつらを通すな」という意味のスペイン語らしいと知った。/デモを否定するつもりはないが、意味が通じる仲間による仲間に向けた大合唱に、近寄りがたさを感じた。「法案反対」に共感するデモの参加者にさえ理解できない言葉が、遠巻きに眺める人々の心に届くのかと疑問を抱いた。/2時間後。異様な熱気は消え、数人がビラを配るだけになった。受け取る人はわずかだったが、法案に反対する理由がしっかりと書かれていた。「ノーパサラン」の連呼が、法案について考えてみようとする人の機会を奪う「通せんぼ」にならなかったか。地道な活動を続ける人たちを前に思った。【水戸健一】(毎日新聞 2015年10月01日 地方版、Web版より)

 「ノーパサラン!」の標語をそれまで知らなかったと書くのは素直ではあるが、新聞記者としてはリテラシーが低すぎると言わざるをえない。またこの語を知らずに「困惑」する参加者の一人を選択して記者自身の違和感を投影させ、それを一般化して、「地道な活動を続ける人たち」とこの標語を使う人たちを分断し、後者を内輪の大合唱として否定する論法は乱暴で、大いに問題があると思う。
 日本でも「ノーパサラン!」は近年アンティファ(ファシズムへのカウンター)運動などで標語として使われてきたが、何よりも今年になってSEALDsの多様なコールのレパートリーのひとつとして、国会前で、また各地でこれを多くの人びとが聞き、また唱えることで広く普及したといえる。私が居合わせて見たかぎりでいうと、初夏から真夏へと国会前の抗議集会やデモの参加者が回を追うごとに増えていった際に、「ノーパサラン!」のコールは、“Tell me what democracy looks like!”などと同様に、コーラーがメガホンで唱えたときに特に年配の方々で意味がわからず唱和できない人が確かに見受けられた。「ねえ、なんて言ってる?」「わかんないねー、なんだろー」
 しかしこれが「地道」な参加者を疎外する「通せんぼ」になったという印象は私にはまったくない。夏の終わり頃までに、9月の参院の閉会までの数日間ともなると、概ね普及して、初老の男性だろうと、女性だろうと、いや初老でなくてもっと高齢の方でも、かなり返せるようになっていた。画期的な三連符の「安倍は辞めろ!」コールも老若男女問わず多くが身につけてしまっていて、すごいと思った。“This is what democracy looks like!”を若者がノリのよいリズムで唱えるのに中高年が付いて行くのは最後まで厳しそうではあったけれども。それでも明らかに大半の人がそのコールを楽しみかつ共感していた。
 内輪のスローガンなどではなく、1930年代のヨーロッパの反ファシズムの人民戦線、また近年のオキュパイ運動で用いられたスローガンなどを引用することで、戦争法案反対の示威行動でありながら、過去の世界各地での民主化運動にいまの運動が連なっているという認識を集団的に共有することができる。そうしてみると「ノー・パサラン!」はいわば叙事詩の一節のような働きを持っている。なにしろこの語句に歴史上の反ファシズム運動、民主化運動の重層的な記憶が埋め込まれているのだから。これを知的で情熱的な、また徳の高い近頃の若者たちが、言葉を身体化し、朗唱しているのを見ると、こんなどうしようもないありさまではあるが、この国にはまだ希望があると思えてくる。まったく近頃の若者ときたら、大したもんじゃないか。
 そういうわけで、79年前の1936年10月4日も日曜日だった。その日ロンドンはよく晴れていたそうだ。