ウィリアムズ『辺境』の訳者解説

 レイモンド・ウィリアムズ『辺境』(小野寺健訳、講談社、1972年)。書架から取り出して訳者解説を謹んで再読。味わい深い、平易な文章で、ウィリアムズの小説の急所が的確に語られている。
 そのなかに小野寺先生ご自身の少年時代の非常に印象的な回想が挟み込まれている。以下、引用する。

戦争の末期に中学生だった私は、農村動員で横浜近郊の農家に泊まりこんで、農作業を手伝ったことがある。
 その一軒の農家の老人が、畑仕事の休みに煙管(きせる)で煙草を喫(す)う姿を見るたびに味わった恍惚感を、私はいまでも忘れられない。その人は実においしそうに煙草を喫った。煙草に浸りきって何も見えないような風情だった。以来、私はこんな風に煙草を喫う人に、こんな休息のとり方をする人に出会ったことがない。傍に腰をおろしていた少年の私までその雰囲気に陶然と酔って、いつまでも喫っていてくれるようにと祈ったくらいだった。どうすれば何かをそんな風に楽しめるのか教えてください、と言いたいくらいだった。それが農民の生活のリズムに根ざしているのだということなどは、当時の私には思いつけるはずもなかった。彼の鍬の使い方も、その息子さんだった三十がらみの人のそれとは違って、思えばこの煙草の喫い方と一致していたのである。

 訳者がこの老人の立ちふるまいを強く心に留めているのは、言われているように、その後の人生で見かけなくなった姿であるからだ。その姿は、『辺境』の小説世界でいえば、主人公マシュー・プライスの父親であるジャック・プライスの居住まい・佇まいと重なる。たしかにこの小説でも「こういう感覚はジャック・プライスで終っている。そして人間は、この時、たしかに何か大きな体験をその文化の中から失ったのに違いない。」
 近代の英国小説においてはこうした文化の残滓をハーディやロレンスの作品世界に見ることができる。「田園を破壊する憎むべき敵」としての産業化の批判と抵抗――その「伝統」をウィリアムズもまたロレンス経由で継承しているといってまちがいないだろう。
 だがそこを見るだけでは、つまり、ある体験の喪失を強調するだけでは、ウィリアムズの小説の勘所を捉えそこねてしまう。そこをしっかりと読み取ったうえで、小野寺先生はつぎのように指摘しておられる。

しかし、ウィリアムズは産業化を告発して田園を愛惜するところで立ち止まってはいない。『辺境』のさいごのシーン、ロンドンのパディントン駅に帰りついたウィルが、あわただしく地下鉄に向って歩いて行く群衆の中を急いで行くところは、ウィルがもはや現実となった「近代社会」と何とか対決しようとしている決意を思わせる。その決意は今のところ暗く悲壮である。しかし辺境のグリンモーからかつて都会へ出て来た彼は、こんどはその都会の生活そのものが新たな辺境であることを自覚し、その辺境文化の中から価値あるものを建設するほかに道はないと思っているように見える。(小野寺健「『辺境』解説」)