小野二郎「ラスキンとウェスカー」

小野二郎著作集」に未収録のエッセイ「ラスキンとウェスカー」(1982年)を以下に掲載します。

 

     ラスキンとウェスカー

        小野 二郎 

  一九七三年の秋のことだったと思うから、もう九年近くの前のことになる。当時ロンドン郊外に滞在していた私のところにウェスカーから思いがけずに手紙が舞いこんだ。

 あなたがウィリアム・モリスの仕事を調べに今ロンドンに来ていることをO氏の便りで知った。ついては優秀なモリス研究者を紹介するから、遊びに来ないかという文面である。その五年ほど前、〈ウェスカー68〉という宮本研、木村光一、小田島雄志津野海太郎などの人びとがグループをつくり、彼を日本に招いて講演、シンボジウ厶をおこない、「三部作」を上演したことがあった。私などはその周辺をうろうろしていたに過ぎないが、彼の作品の翻訳刊行にわずかばかり関係したことがあって、私の名を記憶していたのであろう。

 約束の日のお昼に私たち夫婦は、ロースト・ビーフと自家製のヨークシャ・プディングと林檎酒の饗応に与った。バーミンガム大学に提出する論文を準備中という中年女性の研究者は快活で親しみ深いお人柄のように見受けたが、この人を交えて当然話題はモリスのことになった。するとほとんど唐突に私に向って「あなたはモリスを勉強している以上、余儀なくラスキンを読まされただろう、ラスキンのことをモリスと較べてどう思うか」と質問してきた。私が「う?」という顔をしていると、「つまり、思想家としてはラスキンのほうが独創的だと私は思うが、あなたはどうか」と重ねての質問である。私が「う、う」とつまっていると、かの女史が、「思想家としてはラスキンが偉いかもしれないが、実践家としてはモリスが偉い。」といった。ウェスカーは言下に「そんなことをいったって、モリスの実践は失敗だったじゃないか。」と勢いこむ。

 マルクスレーニンのどちらか偉いかといわれたって困る。評価軸が違うだろう。それにモリスの実践といったって、社会主義者としては失敗したかもしれないが、デコラティヴ・アーティストとしては大成功したし、詩人としても成功したじゃないか、などとやくたいもないことをぐずぐず頭のなかで考えたような記憶はあるが、このギロンがどう落ち着いたか忘れてしまった。

 しかし、今思って見れば、いやその後時々思い返しているのだが、ウェスカーが委細かまわず、モリスの実践の失敗をいい切ったのは、むしろ社会主義者としての失敗は芸術家としての失敗に他ならぬという思いを伝えたかったのではなかろうか。さらにいえば、かれは、自らの〈センター42〉の失敗を若気の過ちとして見ておらず、芸術家としての失敗と自覚しているということだろう。

〈センター42〉。六〇年代の始め、労働運動に文化運動をぶつけようという目的のための組織的な試みであった。組合運動のなかで文化活動を盛んにさせるということではない。そうではなくて、労働の自立のための希望の原理は芸術への関心のなかにあるということ、労働の解放の手だてもまた芸術への興昧のなかにあるということ、そういう事実そのものに労働者階級に目覚ませようというのである。

 生きるということの喜び、これを与えることが芸術のもっとも基本的な役割りであろうが、にせの喜びで誤魔化されないよう、絶えず本物の喜びを教えてくれるのも芸術の役割りである。文字通りの飢えからの解放だけが、運動の動機でない以上、人間としての欲望の溌溂たる充足に労働運動が根拠を置かなければ、その運動は人間解放の運動にならないではないか。

 しかし「溌溂たる充足」は欲望の質と関係する。この問題に溌溂と目覚めさせること自体芸術の役割りである。

 これはまた、ウェスカーの劇作の当初のモチーフそのものであった。それがそのまま〈センター42〉の運動のモチーフになっていたのである。しかし、労働組合は欲望を古い殻に閉じ込めて、この呼び声に耳を藉さなかった。ウェスカーは失敗した。

 以後、失敗がかれの劇作のテーマになる。少くとも主要なテーマの一つになる。『彼ら自身の黄金の都市』『友よ』そして、この『青い紙のラブレター』。失敗の情況は次第に削られて行き、失敗そのものが主題になってしまう。『青い紙のラブレター』の老いたるかつての組合指導者が引用するラスキンは、ウェスカーやあるいはモリスを導いた、あの熱っぽい思想の鼓吹者ではなく、晩年の錯乱の色濃く、死の影のにじんだ、自伝的作品『プラエテリタ』からである。

 ラスキンは実践において失敗しなかったか。失敗した。「聖ジョージ・ギルド」の試みである。この試みは、その中身を紹介する気になれぬほどつまらなく、試みといえるようなものでないかも知れぬ。それは、あの巨大で複雑な陰影に富む思想を、実践的計画綱領に凝縮し、要約したというようなものではない。すこぶる不得要領で、理想的で実行不可能な内容というより、間違った行動原理をふくんでいるとさえいえるだろう。もし、これをラスキンユートピアと呼べるなら、「このユートピアは史上数あるものの中で最も不鮮明な、最も退屈なものの一つであろう。」という批評は当っていると思う。

 つまり、これは失敗とさえいえないものだ。運動は、その内包する思想を、挫折や失敗の形でしか伝えられない場合がしばしばある。モリスの場合がそうだ。ラスキンの思想の独創性とは何か。人を失敗させる力だといいたい。

 モリスにとってのラスキンとは、モリスが青年時代に読んだ若き日のラスキンである。それを理論ともし、情熱ともして、長い間、ものを作り、形を生み出した。そういう実践を通じてその思想の孕むヴィジョンが次第にくっきりと姿を現わすようになり、そして新しい行動を促し、その失敗によってしか、表現できない何かを表現した。

そこへゆくと、ウェスカーは未だ十分に失敗してはいないだろう。かれがラスキンの思想の独創性をいった時、直接に実行を導き出すことの難かしい、一個鬱然闇闇たる思想の団塊を想っていたのかも知れない。それをわざわざ、かれウェスカーがいい立てるようにしたのは、己れの〈センター42〉の失敗を「聖ジョージ・ギルド」の失敗にもならぬ失敗と重ね合わせ、無視し、もっと大きい失敗を夢想したのかとも思う。

 いや、そうではなかろう。ラスキンの思想を実行に移すなら、モリスのように、大らかにそのメッセージの中核と信ずるところを、大胆に、あるいは素朴に受取り、それをマルクスにぶつける方向がやはり、伸長力のある世界を展開できるのであろうが、その豊かなモリスの失敗を豊かに昧うとすれば、そして〈センター42〉の失敗を昧いつくそうとすれば、エロティックなまでに向日的なモリスよりも、異常な視力と臭気さえ発する自省の苦汁とがもつれ合い、くねり、そして飛翔するラスキンの思考の跡を尋ねることになったのではなかろうか。思考の進め方の中に、失敗の自覚的先取りがあるからである。

 実行上の失敗によってしか見えないものを文体のなかで発見しようとする。モリスが行き着いたところから出発したともいえるウェスカーは逆の路を辿ったといえるか。〈センター42〉の失敗がなければ、ラスキンをこうは読めないという読み方。こうしてラスキンの文体のなかに発見したもの、というより発見したかたちを、芝居の上で再現しようとしている……。

 しかし、舞台で強調されるはずの、オレンジを切る手さばきの、熟練した迅速さが、かえってゆったりした時間の流れを伝えるのはモリスのデザインの昧に近いのである。(1982年)

 

 

*(後記)ここに採録した小野二郎192982)の「ラスキンとウェスカー」は、劇団五月舎によるアーノルド・ウェスカー作『青い紙のラブレター』の公演パンフレット(1982年4月)に掲載されたエッセイである。執筆はおそらく19823月下旬、著者が急逝する一月前のことだった。

 これは晶文社版の『小野二郎著作集』(全3巻、1986年)に収められていない。著作集を編んだ際に編者たちの目をすり抜けてしまったためである。ちなみに編者名は記されていないが、著作集の立案は津野海太郎氏が中心となり、島崎勉氏(晶文社編集部、当時)、それに川端が加わって三人で構成を練った。1985年の夏の一日、晶文社近くの旅館の一室で三人で長時間編集会議をしたことを覚えている。「ウィリアム・モリス研究」「書物の宇宙」「ユートピアの構想」という各巻のタイトルもその日にもう決めたのではなかったか。

 ラスキンとウェスカー(またモリス)の思想をめぐり、彼らの「挫折」や「失敗」に積極的な意義を見出しつつ評価する文章は小野ならではのものであり、ラスキン論としても独特な知見が示されていると思われる。これを見落として著作集に入れ損ねたのはわれながら惜しかった。上記の公演パンフレットをわたしがたまたま古書ネットで発見し入手したのは2008年春のこと。『ラスキン文庫たより』第57号(200910月)に再録したが、さほど多くの読者の目にふれたとは言いがたい。それで今回、小野二郎の回顧展(「ある編集者のユートピア」展世田谷美術館427623)がまもなく開かれる折でもあるし、ここに新たに再録することとした。掲載を許可してくださった小野俊太郎氏(小野二郎のご長男)に感謝申し上げる。(2019年3月15日、川端康雄記)