汚れなき空のかけら――E・М・フォースターのディストピア

 E・М・フォースター(1879-1970)の「機械が止まる(The Machine Stops)」の初出は『オクスフォード・アンド・ケンブリッジ・レヴュー』の1909年秋学期号で、その後短篇集『永遠の瞬間』(1928)に収録された。1947年に編まれた『短篇集』の序文で、著者はこの作品を「H・G・ウェルズの初期のさまざまな楽天的世界への反動」であると注記している*1。『モダン・ユートピア』(1905)などでウェルズが描いた、技術革新による新たな文明世界の理想像に対置して、フォースターは機械文明が人間に災禍をもたらす、ネガティヴな未来像を提示してみせる。この短篇ファンタジーは、ディストピアという二十世紀に典型的な文学ジャンルのほぼ出発点に立つ。

 『短篇集』のなかではこれが最も長い作品(1万2千語強)で、「飛行船 (The Air-Ship)」、「修理装置 (The Mending Apparatus)」、「ホームレス (The Homeless)」の三部構成。書き出しはこうだ。

もしできるならば、蜂の巣房のような六角形の小部屋を想像されたい。窓の明かりもランプの照明もないのに、柔らかな明かりに満ちている。換気口がないのに空気は新鮮。楽器などないのに、私の瞑想がはじまるこの瞬間に、この部屋は快い調べが鳴り響いている。(1)

部屋にある家具はアームチェアとライティング・デスクだけ。ここは「キノコのように白い」顔をした女主人公ヴァシュティの部屋で、この未来世界の人間の住居はすべてこれで規格統一されている。迷信その他の旧弊な観念が排除され、グローバル化が貫徹して、ウェルズのいう「世界国家 (the World State)」が実現しており、もはや地域差は消滅している。しかもそこは地下世界であって、人びとは地表に出ることはほとんどなく、出るためには人工呼吸器を必要とする(地下の空調設備に順応していて自然の大気は耐えられなくなっているので)。

 もっとも、地表に出て日光を浴びたいとか、星を見たいという欲求もない。「蜂の巣房のような六角形の小部屋」に全員が引き籠もっていて、そこは「独房」さながらなのだけれど、べつだん不自由は感じない。なにしろ、食事もベッドも情報も娯楽品も、必要になったらボタンを押せばたちどころに出てくる。話し相手にも不自由しない。直接会うことはないが、通信講座で音楽を講ずるヴァシュティには数千人の知人がいて、テレビ電話で連絡が取れる。「ある方面では、人の交流はとてつもなく進歩していた」(1)と語り手が皮肉な口調で伝える。邪魔されずに思索にふけりたければ「遮断スイッチ」を押せばよい。

 そのマニュアル本として、「機械の書」を各人が所有している。「非機械的(アンメカニカル)」な行為は不法とみなされ、「機械委員会」によって「ホームレス」の刑罰に処される。これは地表へと追放されて直接大気にさらされる罰で、事実上それは死刑を意味する。しかし彼らのほぼ全員が「非機械的」なまねをしようなど毛頭考えない。ヴァシュティも、「機械の書」を撫でながら「ああ、機械よ! 機械よ!」(91)と唱え、この地下世界のグローバルな機械文明を完全に受け容れ、信頼している。

 ところが地球の裏側に住む息子のクーノーはそうではない。彼はオーウェルの『一九八四年』(1949)の主人公ウィンストン・スミスを典型とするような、ディストピア世界に違和感を覚えて反逆する人物である。彼は母親に対して、機械を通してではなく直接会って話したいと、この世界にあっては異端的とされる申し出をする。直接ふれあうことなど、思っただけでも身震いすることではあったが、数度の申し出のあと、母は高速飛行船を使って息子に会いにいく。その不愉快な出発と途上のくだりが第一部。

 第二部で、クーノーの部屋(造りは母親のそれとまったく同一)に到着したヴァシュティは、息子の冒険譚を聞かされる。それは彼女にとっては忌まわしい話で、クーノーは、人工呼吸器と衛生服を身につけて、無断で地表に出てきたという。外気を封ずる遮断蓋を見つけ、それを開けて戸外に出ると、陽光に照らされたウェセックス地方の風景が広がっていた。クーノーの告白はやがて幻想的な趣を帯びてゆく。日没頃、窪地の外気と人工空気の境目あたりに、「長く白い蠕虫」(107)が這い出してきて、彼の足首にからみついた。それが一匹でなく、周囲一体にうじゃうじゃと出てきて、彼をがんじがらめにして、失神させた。気が付くともとの自分の部屋にいて、虫は跡形もなかった。最後に彼は、意を決してこう告白する――戸外の黄昏のなかで、一人の女性が現れて彼を助けに来た。しかし彼女も蠕虫にからまれて、「ぼくよりも幸福なことに、喉を貫かれて殺されてしまった」(108)。ヴァシュティはこの奇妙な告白を聞いて息子の頭が変になったと思う。しかし、ここはクーノーの主観的な語りであって、彼は機械の「修理装置」を蠕虫と取りちがえていたのだということが後ほど語り手によって明かされる。

 第三部では、機械の二大革新と最後の破局を語る。クーノーの向こう見ずな冒険の後、まず人工呼吸装置が廃絶されて、地上に出ることは事実上不可能となった。もうひとつの革新は「機械の書」を聖典としての宗教の復活。それは機械そのものを神格化する宗教にほかならない。そして、あまりに進歩したために、もはや機械は人間の手に負えなくなる。「年々、機械の能率は増大し、知性の方は退化していった。・・・その怪物の全体を理解する者は世界中一人もいなかった」(111)。

 機械が人の手に負えなくなるといっても、ここでは(後のサイバーパンク小説などによくあるように)人間の制御から機械が完全に自立して、意図的に人間の支配を始めるということではない。機械のヴァージョン・アップと反比例して、人間の精神が退化してゆき、「機械の書」の全体を熟知していた技術者も消え、必要なメインテナンスが不可能になってしまうのである。些細な故障がしだいに重大な欠陥として広がってゆく。音楽に雑音が入る。人工果実にかびが生える。浴槽の水が悪臭を発する。自動収納のベッドが出てこなくなる。いずれも住民は最初は当局に苦情を言うが、機械への信仰から、すぐに文句を言わなくなる。そしてついにある日、コミュニケーション・システム全体が故障してしまう。それまでの機械音が消えて、はじめて沈黙がおとずれて、それだけで数千人がショック死する。最後には飛行船が爆発して地下都市をずたずたに引き裂き、みなと一緒に、ヴァシュティもクーノーも滅び去って物語は終わる。

 先ほど私はクーノーを『一九八四年』の主人公と比べたが、二人の反逆の対象はいささか質を異にする。ウィンストン・スミスは、純然たる権力追求を動機とする「党」の支配体制に立ち向かうのであり、その先には、その体制を維持・強化せんとする少数の支配層の強固な意志が実体として措定されている。それに対して、クーノーのいる地下世界には、「機械」を道具として世界支配を果たそうというような独裁者の意志は見られない(委員会じたいも機能不全におちいる)。

 むしろ、クーノーが立ち向かうのは、藤田省三が「『安楽』への全体主義」と名づけたような、二十世紀の高度技術社会を支えた心性そのものであるといえる。それは「私たちに少しでも不愉快な感情を起こさせたり苦痛の感覚を与えたりするものは全て一掃して了いたいとする絶えざる心の動き」*2である。「全ての不快の素を無差別に一掃して了おうとする現代社会」は、「安楽への隷属」と同時に「安楽喪失」への不安を生み、「分断された刹那的享受の無限連鎖」を生み、その結果、本来なら一定の苦痛や不快の試練に耐えてそれを克服したところに生まれる「喜び」の感情を奪った。それは「複合的統合態としての精神」の解体と雲散を示す*3

 フォースターの物語においても、「人類は、安楽さを欲するあまり度を超してしまった」(111)。「不愉快」な他者や事物との直接的な相互交渉を忌避するのがここでの「時代精神」になっている。「進歩的」な学者の一人は「直に得た思想にご用心」(109)と説く――思想は直接観察でなく、何重にも仲介者を経由させなければいけません。そうなってこそ、生の事実や印象を超越した、「天使のごとく、個性の汚れから自由」*4な、「完全に無色透明な世代」が生まれるのです(110)。

 こうした「時代精神」に対抗するための第一歩として、クーノーは身体運動にはげみ、人びとが失った「空間の感覚」(100)を、あるいは自己克服の動力としてのリズムを取りもどそうとつとめる。「機械はぼくらから空間の感覚と触覚を奪ってしまった。あらゆる人間関係をぼやけさせ、愛を性行為に矮小化し、ぼくらの身体と意志を麻痺させてしまった。そうしていまやそれを崇拝せよと強いている」(105)とクーノーは言う。

 アビンジャー版の注釈者が示唆するように、Kunoという名は古典ギリシア語の「犬の (cynos)」や「犬のような (cynicos)」に由来する可能性があり、あの自由人ディオゲネスのように、社会的因襲には「シニカル」に対し、自然の賜物を尊ぶ思想の持ち主という含みがあるのかもしれない(187)。クーノーは、この物語世界で危機的事態に対処しうる独立精神を備えた唯一の人物なのである。とはいえ、彼でさえも崩壊する地下都市から脱出することはできない。もはや破局を逃れることができないことを思い知って、彼は、母とともに、「自分のためではなく、人類のために」(117)さめざめと泣く。

「希望はあるのかしら、クーノー?」

「ぼくらには、何も」

 でも、自分が以前に地表で目撃した「ホームレス」の人びとにはあるかもしれない、とクーノーはほのめかす。「機械」を再び動かす馬鹿者ももはやいないだろう。もう過ちは繰り返すまい。「人類は教訓を得たのだから」。

 そう言ったとき、都市の全体が「蜂の巣のように」崩壊する。テクストの最後のセンテンスは、主人公の母子が死ぬ悲劇的な内容だが、ちがう要素もある。「一瞬、二人は死者の国を見て、それから、その一員となるまえに、汚れなき空のかけらを見た」(118)。小説の最後が “scraps of the untainted sky”というフレーズで結ばれていることに注目したい(これはトム・モイランが注目すべきディストピア研究の書物の表題に採っている)*5。爆発して落下する飛行船の鋼鉄の翼に引き裂かれて、おそらく地下と地上を隔てる障壁に穴が空いたのである。ディストピアの語りなので、それは当然のこととしてカタストロフィで終わる。だがそれにもかかわらず、この幕切れで不自由な世界の閉鎖系に穴が穿たれて、そこから別世界の光景が、一瞬、掠めすぎるようなイメージとして、垣間見られる。絶望的な世界のなかで、希望の光がかすかにきらめく。あくまでそれは「スクラップ」(断片、破片)にすぎないのであっても、周到にもフォースターは、結句に希望の「かけら」を置いているのである。

 逆説的だが、そもそも希望がなければディストピア小説など書けないし読めないのだと私は思う。

 

*本稿の初出は『英語青年』150巻2号。2004年5月(初出時タイトル「E・M・フォースター「機械がとまる」」。川端康雄『葉蘭をめぐる冒険――イギリス文化・文学論』みすず書房、2013年に再録。

*1:E. M. Forster, “The Machine Stops” (1909): Machine Stops and Other Stories (Abinger Edition 7). Edited by Rod Mengham (London: Andre Deutsch, 1997), p. xvi. 以下、「機械が止まる」からの引用箇所は、このテクストの該当ページを本文中に注記する。

*2:藤田省三全体主義の時代経験』みすず書房、1995、314頁。

*3:同書、10頁。

*4:「天使のごとく、個性の汚れから自由(seraphically free / From taint of personality)」というのは、ジョージ・メレディスの詩“The Lark Ascending”(1881)に含まれる表現。ジョン・ラスキンの場合と同様、フォースターはヴィクトリア朝の著述家をこんなふうにシニカルに使う。

*5:Tom Moylan, Scraps of the Untainted Sky. Boulder, Colorado and Oxford: Westview Press, 2000.