verum factum est 真なるものはつくられたもの

 書き出しで一気につかまえられる本というのがある。初めだけよければいいというものではなく、尻切れとんぼで失望させられることもままあるが、小説であれ、批評作品であれ、読み出したとたんに著者の術中にはまって途中でやめられなくなる名著がある。若い時分に読んだ類はとりわけそのインパクトが永続的で、わたし自身の学生時代の読書体験でいまでもありありと思い起こされる評論・研究書を二、三挙げるなら、エーリッヒ・アウエルバッハ著『ミメーシス』(1946年)での「オデュッセウスの傷痕」の挿話の導入部(これは筑摩叢書版の篠田・川村訳で読んだ)、フランシス・イェイツ著『記憶術』(1966年)で詩人シモニデスがカストルポルックスの加護によって災害から逃れたことで場所(トポス)とイメージを基礎とする記憶術の創始者となったいきさつを語った魅惑的なプロローグ、そしてもうひとつが、若干ここで立ち入ってみたいエドマンド・ウィルソン著『フィンランド駅へ』(1940年)で、フランスの歴史家ジュール・ミシュレナポリの未知の思想家ジャンバッティスタ・ヴィーコの著作を見出して知的興奮を受ける、「ミシュレヴィーコを発見」の書き出し、これが忘れがたい。

 最後のウィルソンの著作の冒頭部分を岡本正明訳(みすず書房、1999年)で引用するとこうである。 

一八二四年一月のある日のこと、哲学と歴史を講ずるフランスの若き教授ジュール・ミシュレは、読んでいた本の訳注のなかに、たまたまジョヴァンニ・ヴィーコの名を見いだした。ヴィーコにかんする言及にたいへん興味をそそられたミシュレは、何はともあれ、さっそくイタリア語の勉強にとりかかった。

 ウィルソンのこの本は西欧革命思想の理論と実践の両面での歴史的展開を書いたもので、表題は1917年4月にロシア革命の指導者レーニンを載せた封印列車がサンクト・ペテルブルグの「フィンランド駅」(フィンランドヘルシンキ行きの列車の始発駅)に到着する場面をクライマックスとしていることにちなむ。ヴィーコに啓示を受けたミシュレから、ルナン、テーヌ、アナトール・フランスへ、そしてバブーフ、サン=シモン、フーリエ、オウエンら初期「ユートピア社会主義者をへて、主役のマルクスが登場、エンゲルスの支援を受けてマルクスの著作がヨーロッパ各地の革命集団のなかで次第に地歩を固めるさまが記述され、最後にマルクス主義の理論を実践しロシア革命を導くトロツキーおよびレーニンの活動が語られる。

 1940年刊行のこの著作にかんして、ソヴィエトが人類史上最悪の独裁国家のひとつと化していたのを見抜けなかったとして、晩年のウィルソンはもっともな反省の弁を述べているのではあるが、本書の語り口が織りなす壮大な思想史的ドラマの豊饒さは、いま読んでもいささかも損なわれてはいない。原書の副題は意味深長にもA Study in the Writing and Acting of Historyとなっている。ここで歴史を「書くこと」(writing)と「行為すること」(acting)とを一つの定冠詞で統合していることに注意したい。思想家と運動家たちが「よりよき世界」を構築するためと信じ、生涯を賭しておこなった「歴史記述」と「歴史創造」の相互的な営みをウィルソンは事物に即した簡素平明な文体をもって、ひろやかな視野のもとに描き出している。

 「ミシュレヴィーコを発見」のエピソードに話をもどす。19世紀初頭ではヴィーコはイタリア国外では無名であり、ラテン語の著作は別にしても、代表作『新しい学』(1725年)をミシュレが読むためにはイタリア語を学ぶしかなかった。結局ミシュレ自身の手によってそのフランス語初訳が1827年に刊行される。いったいミシュレヴィーコのどこに惹かれたのであったか。それはヴィーコの歴史哲学の肝となる「真なるものverumはつくられたものfactumである」という原理である。蓋然的知識を排除するデカルト的自然科学の原理にヴィーコはこれをぶつけ、歴史哲学の方法論を構築した。以下は『新しい学』の有名すぎるくだりであるが、これはミシュレに対してももっとも感銘を与えた部分であろう。

はるか古(いにしえ)の原始古代を蔽っているあの濃い夜の暗闇のなかには、消えることのない永遠の光が輝いている。それは何人たりとも疑うことのできない真理の光である。すなわち、この社会は確実に人間によって造られたものであるから、その原理は我々の人間精神そのものの変化様態のなかに求めることができ、またそうでなくてはならないことである。(ヴィーコ『新しい学』第一巻331節、清水純一他訳、『中公バックス 世界の名著33 ヴィーコ』所収)

 ヴィーコにとっての歴史とは、人間にたちはだかるさまざまな自然的・人的障害を克服する努力をとおして、人間および人の手になる諸制度を絶えず自己変革しようとする営為にほかならなかった。それは「人間の」活動であり、「人間による」構築物の帰結なのだから、人間によって理解しうる(逆に、自然はそのようには理解しえない)。アイザイア・バーリンが『ヴィーコとヘルダー』で指摘したように、これがヴィーコならではの独創的な人文学的学説であり、ミシュレに霊感を与え、マルクスに称賛された点なのだった。そしてここでの「人間」とは王侯貴族や武人など一握りの権力者や特権層だけを指すものではなく、むしろ市井の人びとを含み込んでいる。「ふつうの人びと」がもつ「英知」、すなわち「民の知」(la sapienza volgare)の意義を強調した点でも、後続の思想家たちに大きな影響を与えた。「下からの歴史」の系譜を探るならヴィーコにひとつの源泉があると言ってよいのだろう。

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 ここからまた個人的な思い出になるが、『フィンランド駅へ』をわたしが読んだのは1980年頃、ダブルデイ社のペーパーバック(「アンカー」叢書)の古書を入手して、主に通学兼通勤の中距離列車のなかでの読書だったのだが、糸綴じをろくにせず糊で済ませた粗悪な製本なものだから、読み出してまもなく背表紙がパキッと裂けてばらばらになってしまい、500ページを超える大部だったのが読み終える頃には10何冊かの分冊になっていた。『フィンランド駅へ』というタイトルを見聞きするだけで、混雑した車内で揺られながらひどい装丁の(しかし中身は傑作の)ページをたぐっていた(いや、それこそ文字どおり「読み破っていた」)ことが思い起こされる。

 そうだ、さらに記憶の糸をたぐるなら、『フィンランド駅へ』を勧められたのは恩師の小野二郎(1929-82年)からなのだった。最初に挙げた『ミメーシス』も彼の比較文学講義の冒頭でレオ・シュピッツァーやクルティウスらと併せて教示されたのだし、ヴィーコとアウエルバッハの密接な関係についても注意を促してもらった。イェイツの『記憶術』にしても彼が晶文社の編集顧問として翻訳刊行に関与した『世界劇場』をまず読んでから取りかかったものなので、いずれも小野が導き手だったということになる。

 明治大学駿河台校舎の旧大学院棟の四角い大テーブルを囲んだ談話室兼演習室は午後のゼミが終わるとしばしばそのまま酒席に転じることとなり、学生たちに加えて助手や他の教員(また時に編集者)も合流して談論風発の饗宴と化した。学生の身分ではふだん口にできないようなシングルモルトウィスキーやら吟醸酒やらに折々ありつく垂涎の機会でもあった。自由な雰囲気なのをいいことに、わたしをはじめ学生はずいぶん生半可なことをしゃべったものだが、小野にはそれを受けとめて返す鷹揚さがあった。愛用のブライヤーパイプをくゆらせながら楽しげに耳を傾ける別の教授の姿も思い起こされる。わたしの知るいまの大学世界を思うと隔世の感がある。本来の演習の時間に聞いたのだったか、それともある意味でより興味深い話が聞ける、くだんの「饗宴」の時間であったのか、定かでないが、小野はあるとき『フィンランド駅』について熱く語り出し、「時間があったらいつか翻訳してみたい」と言ったのである。「ミシュレヴィーコを発見」の出だし自体も、もしかしたらその際に彼が語っていたのかもしれない。

 ヴィーコへの小野の関心も並々ならぬものであったと記憶するが、彼の著作でヴィーコについての論考はとくに見当たらない。ただしわたしの知るかぎりで一度だけ言及がある。それはヘルベルト・マルクーゼ著『解放論の試み』(筑摩書房、1974年)の訳者あとがきのなかに出てくる。マルクーゼのこの本を「一個の芸術論として、いやむしろ、芸術運動論として読んだ」と述べたあと、小野はこうつづける。 

ということは[・・・]もっと広くというか、歴史全体を人間の、民衆の想像力の造作としてつかむということの、現代の条件のなかでの試みとして読んだということである。ジャンバティスタ・ヴィコやウィリアム・モリスを思い合わすのは突飛なことであろうか。少くとも私にはそのようなものとして読まれた。

 英文学研究者(というか、むしろ「文化史家」と言うべきか)としての小野が中心課題にしたのがウィリアム・モリスであったのは周知のとおり。そのモリスとヴィーコとをマルクーゼを媒介として接続している興味深いくだりである。わたしにはこの連結はけっして「突飛」なこととは思われず、たしかに小野は「歴史全体を人間の、民衆の想像力の造作としてつかむということの、現代の条件の中での試み」としてモリス研究の鍬入れをしたのだし、芸術総体を「レッサー・アーツ」の観点からとらえなおすモリス的発想を民衆の生活史の枠に押し広げたことで、「紅茶を受皿で」をはじめとするイギリス民衆文化研究の展開があった。そして芸術運動の担い手でもあった小野にとって、ヴィクトリア時代の社会矛盾を生きたモリスは「民の知」の系譜学の得がたい先人だった。この点では小野とほぼ同時代に活動した(そしてそれぞれに独自のStudy in the Writing and Acting of Historyをおこなった)E・P・トムスン、あるいはレイモンド・ウィリアムズにとってもモリスの位置づけは基本的に同質であったと思う。

 このニューズレターの巻頭言を書くに際して、さて、ヴィクトリア朝文化研究の一学徒としてのわたし自身の立ち位置はどこにあるのだろうか、そもそもどういう出発点であったのだろうかとふりかえって見て、まずは学生時代の経験を思い出して書き出しているうちに、以上のような話の成り行きとなってしまった。恩師の小野二郎は多くの仕事をしながらも、いろいろなことをやり残したまま52歳の若さで急逝し、わたしはといえば、師から与えられたいろいろな課題を牛歩の歩みで解いているうちに、彼の享年をとうに超してしまった。しかも課題はまだろくに片づいていない。モリスしかり。ラスキンの山も登攀はむずかしい。アーツ・アンド・クラフツ運動と社会主義運動が交錯する1880年代イギリスの「前衛」思潮の研究も道半ば。まあ未完で終わるのは必定であろう。それでも追究するかぎりはいずれ「真なるもの」がつかめるという希望は残る。100年以上前の遠い昔の時代であるにせよ、追究する対象は社会の産物であり、ヴィーコが教えてくれたように、その社会はたしかに人間によってつくられたものであり、したがってその原理はわたしたちの人間精神そのものの変化様態のなかに求めることができるものなのであるから。

 (初出:日本ヴィクトリア朝文化研究学会『ニューズレター』2016年5月1日)